立憲主義の砦(とりで)~違憲審査制について

広島自治体問題研究所
竹森雅泰(広島法律事務所 弁護士)


1 はじめに

本稿では、立憲主義の砦(とりで)である違憲審査制について、取り上げたいと思います。なお、以下の論考は、私が司法試験受験時代に基本書として愛読させていただいていた神戸大学名誉教授・浦部法穂先生の『憲法学教室(第3版)』(日本評論社)を参考にさせていただきました。

2 「違憲審査制」とは?

まず、実際に憲法の規定に違反する(「違憲」 といいます。) 法律が制定された場合、それをどのようにして憲法に適合する状態に戻すことができるのでしょうか? 日本国憲法81条 は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」として、違憲立法審査権を裁判所に与えています。つまり、違憲の法律などは、最終的には裁判所において是正される仕組みとなっており、これを「違憲審査制」といいます。

次に、この違憲審査制は、近代国家なら当然にもっていたものでしょうか? 答えは、ノーです。近代立憲主義は、「国民意思」に基づく政治を基本にしていますので、統治機構の中心は「国民代表」機関である議会であり、これを 「国民代表」機関でもない裁判所(あるいはその他の機関)が審査するなどということは、考えられないことでした。だから、法律の合憲性の判断は立法者自身が立法の過程において行うのが本来でした。ところが、違憲審査制は、第2次世界大戦後、世界各国に広まりました。これは、基本的には、 現代国家における議会制の機能喪失に起因するといわれています。つまり、選挙権が資産のある男性に限定されていた制限選挙の時代はブルジョアジー階級の支配であり、利害調整が議会内で可能でした。ところが、労働者階級が政治的に力をつけてくると、制限選挙では議会の正当性を根拠づけることができなくなり、普通選挙制が採用されるようになりました。すると、従来は議会から排除されていた民衆の代表が議会に進出するようになり、本質的に調整不能な階級的利害対立が議会に持ち込まれることになりました。その結果、議会は「話し合い」 による利害調整という本来の機能を果たし得なくなり、議会が決定したというだけでは、それに基づく支配を正当化することが難しくなってきました。

そこで、議会の外にあって政治的中立の外観を備えた裁判所が、議会の決定を審査し、正当性を補完する必要が生じ、第2次大戦後、各国において違憲審査制が採用されることとなったのです。

3 違憲審査の類型

それでは、違憲の法律(たとえば、集団的自衛権の行使を含む安全保障法制)が国会で成立してしまった場合に、裁判所は、どのような条件を充(み)たせば、違憲立法審査権を行使することができるのでしょうか?

ドイツの型の憲法裁判所制度では、通常の裁判所とは別の特別の憲法裁判所を設けて、その憲法裁判所が、具体的な事件とはかかわりなく、法律の合憲性を審査することができます。 ここでは、その法律の適用が問題となる事件を離れて、一般的・抽象的に法律の合憲性審査が行われるので、抽象的違憲審査制と呼ばれています。他方、アメリカ型の制度は、通常の司法裁判所が、具体的な事件の解決にあたって、その前提問題として、その事件に適用される法律などの合憲性を審査する制度です。これは、具体的な事件に付随して違憲審査が行われるという意味で、付随的違憲審査制と呼ばれており、日本国憲法の違憲審査制も、アメリカ型の付随的違憲審査制と理解されており、今日ではその理解が定着しています。したがって、安全保障法制について、裁判所に違憲審査権を行使させるためには、具体的な事件として事件を裁判所に訴える必要があります。現在、広島地裁をはじめ各地で安保法制違憲訴訟が提訴されて審理が進められていますが、 裁判所に違憲審査権を行使させるためには、この「具体的事件性」を突破しなければならず、弁護団で頭を絞っているところです。

4 違憲審査の限界~司法自制論について~

違憲審査の対象となるのは 「一切の法律、命令、規則又は処分」 (憲法81条)ですので、事件性の要件を突破しさえすれば、裁判所は違憲審査権を行使できることになるはずです。

ところが、「司法自制論」といって、裁判所は非民主的機関であるから国民を代表する立法府の判断は最大限に尊重すべきであり、裁判所は、法律を違憲無効とすることには慎重であるべきで、その違憲性が明白である場合に限って違憲判断をすべきであるとして、違憲審査権を限定的に行使すべきであるという考え方があります。たしかに、裁判所は、国民を代表しあるいは国民に対して直接責任を負う立場になく、本来非民主的機関ですから、国民を代表し国民に対して直接責任を負う地位にある政治部門(とくに立法部)の意思を最大限尊重すべきであり、立法府の権限濫用(らんよう)に対する保護は、基本的には裁判所ではなく、投票箱に訴えるべきとも思われます。

しかし、安全保障法制の際の国会前デモや世論調査の結果を見れば明らかなとおり、立法部・行政部の決定が国民の多数意思であるというのはあくまで擬制に過ぎません。にもかかわらず、違憲の疑いのある法律によって国民の権利が現実に侵害されているときに、裁判所が違憲審査権の行使を自己抑制して立法部や行政部の判断をそのまま承認することが、はたして民主主義・国民主権にかなうのでしょうか。あるいは、立法部・行政部の判断が国民の多数意思を実際に反映したものであるとしても、裁判所の役割はまさに政治の場では必ずしも十分に保護されない少数者の権利を擁護するとことにあるのではないでしょうか。 

だとすれば、むしろ裁判所は積極的に違憲判断をすべきであり、それが国民の権利を守るという裁判所本来の職分を果たすことになると、わたしは考えます。

5 違憲審査の限界~統治行為論について~

司法自制論とも関係しますが、違憲審査権の限界として、「高度の政治性」を有する国家行為は法的判断が可能であっても、その性質上政治部門の決定を最終のものとすべきであって司法審査になじまないという「統治行為論」 が語られることがあります。

日米安保条約(旧)の違憲性が争われた「砂川(すなかわ)事件」において、最高裁は、「(安保条約は) 主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」であると述べて、統治行為論を採用しています。

しかし、「高度の政治性」というメルクマールはあいまいです。アメリカのトランプ大統領が出した中東・アフリカの 7 カ国からの入国を一時禁止する大統領令に対して、裁判所が憲法違反であるとして大統領令を無効とする決定を出し、トランプ大統領が裁判所を痛烈に批判した例からも明らかなように、違憲審査権の行使はどんな場合でもなんらかの程度で政治的機能を営むものであり、重要な憲法問題であればあるほどそれは顕著です。そうすると「高度の政治性」のゆえに違憲審査が及ばないというなら、重要な問題であればあるほど違憲審査が及ばないということになりかねず、裁判所はあまり重要でない問題だけ違憲審査ができるということになりかねません。そうだとすると、裁判所に違憲審査権を認めた意義がほとんどなくなってしまいます。

この点、日本の安全保障や世界平和の実現のためにどういう政策をとるかの決定は、たしかに高度の政治的な判断を要する問題であり、裁判所のなしうる仕事ではなく、政治部門が決定すべき問題だといえます。しかし、そのことと、決定された政策が憲法に適合するかどうかの判断とは問題の次元が異なります。裁判所に求められているのは、政治部門の決定が憲法に違反しないかどうかの法的判断であって、高度に政治的な判断が求められているのではありません。立憲主義のもとでは、政治部門の決定は憲法の枠内でなければならず、憲法は、政治部門の決定を憲法の枠内に保つべき憲法保障機能の重要な部分を、司法部に委ねています。統治行為を認めることは、三権分立のたてまえからいえば、むしろその例外とみなさなければならないのです。

以上から、裁判所が安易に「統治行為論」に逃げることは、立憲主義の最後の砦である裁判所の職責を放棄することに他ならないと考えます。

6 最後に

以上のとおり、裁判所は立憲主義の最後の砦です。裁判所に勇気をもって違憲審査権を行使させるためには、アメリカの大統領令の例を見れば分かるとおり、世論の後押しが不可欠です。今回は、なかなか普段の生活ではなじみのない違憲審査制を取り上げました。違憲審査権は、実はいざというときに、個々人の生活・人権を守る大事なものですので、頭の片隅に置いておいてもらえればと思います。