旧優生保護法による人権侵害(リプロダクティブライツ・憲法13条で保障される生殖に関する自己決定権)が、宮城県在住の飯塚さん(仮名)、佐藤さん(仮名)が声をあげたことによって、社会問題となっている。
1948年、新憲法下の日本において成立した旧優生保護法による人権侵害が、「日本社会の隠された障害者差別」として大きな社会問題となっている。
旧優生保護法の立法経緯
(1)戦前の国民優生法の成立
19世紀後半、英国の遺伝学者が遺伝構造の改良で人類を進歩させる「優生学」を提唱し、1907年米インディアナ州、1933年ナチス政権下のドイツ、1934年スウェーデンで「劣等な遺伝子」の排除を目的に不妊手術を実施する法律などがあいついで制定された。日本でもこの流れのなかで1940年国民優生法が成立する。日本が戦争に向かうなかで健兵・健民政策として強化され、優生政策につながる。国家に役立つ「優秀な素因」を持つ者を殖やし、役に立たない者を「不良な素因」を持つ者と位置づけ根絶しようとする優生思想に基づく政策である。
(2)旧優生保護法の成立
終戦直後の国内は経済の荒廃と中国などからの引き揚げに伴う人口過剰に直面し、人口政策として堕胎罪の例外としての人工妊娠中絶を認めるとともに、それでは人口の質が低下する逆淘汰が起こるとして、任意ではなく強制力のある強制手術を認める旧優生保護法制定につながる。
1948年、現憲法下で、「先天性の遺傳病者の出生を抑制することが國民の急速なる増加を防ぐ上からも、亦民族の逆淘汰を防止する点からいっても、極めて必要である」(同年6月19日第2回通常国会参議院厚生委員会会議録第13号)との理由により制定された法律である。
同法第1条は、「この法律は、優生上の見地から不良なる子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」と規定し、優生上の見地による人口政策を目的の一つとして明確に掲げていた。
同法には、具体的な手術として不妊手術(生殖腺を除去することなしに生殖を不能にする手術)および人工妊娠中絶に関する規定があり、その双方について、それぞれ不良な子孫の出生防止を目的とする規定と母体保護を目的とする規定が定められていた。
(3)優生手術について
優生上の理由による不妊手術・人工妊娠中絶(優生手術)は、大別すると、本人の同意(ならびに配偶者があるときはその同意)を得て行うもの(同法第3条)と、本人の同意を要せず、精神病など一定の要件がある場合に都道府県優生保護審査会による審査を経て行うもの(同法第4条、第12条)がある。第4条は、「遺伝性精神病」、「遺伝性精神薄弱」、「顕著な遺伝性身体疾患」などに罹っていることを要件とし、第12条は、非遺伝性の「精神病又は精神薄弱」に罹っていることおよび保護者の同意を要件として、都道府県優生保護審査会に優生手術を行うことの適否に関する審査を申請することができると定め、同審査会で優生手術が適当と認められた場合に手術が実施される。第4条、第12条に基づく優生手術が一般に強制不妊手術とされるが、ハンセン病患者に見るように同意があっても、同意が施設への入所要件とされているなど、真に同意があったとは考えられず、第3条による同意による不妊手術も含め本稿では強制不妊手術という。
また、優生上の理由による人工妊娠中絶とは、本人、配偶者または近親者が「(遺伝性)精神病」、「(遺伝性)精神薄弱」、「遺伝性身体疾患」などを有していることを理由とする中絶と、本人または配偶者がハンセン病を理由とする中絶である。
これらの実施件数は『衛生年報』および『優生保護統計報告』によれば、本人の同意によらない不妊手術は1万6475件、ハンセン病によるものを含む同意による不妊手術は8516件、合計2万4991件、さらに、人工妊娠中絶手術を含めると約8万4000件にも及ぶ。
(4)憲法13条違反と補償立法の不作為
そこでは人口政策の下で、人が子どもを産むか産まないかの自己決定権(生殖に関する自己決定権)が明らかに侵害された。憲法13条で保障された幸福追求権としての人格権・自己決定権を侵害し、障害者差別に該当し、弱者の人権がないがしろにされていった。
1996年、国際的批判および日本国内での障害者団体などからの働きかけによって同法は、「障害者差別に当たる」として優生条項が廃止され母体保護法へ改正された。審議日数は3日間、まさに拙速な改正であった。
当時、約98%の不妊手術被害者はすでに手術から20年を経過していて、国家賠償法による責任追及が20年の除斥期間の定めにより不可能な状況であった。補償立法はまったく検討されず、国によって被害者は見捨てられたといって過言ではない。
被害者が訴え出ることとなったきっかけ
─日弁連への人権救済の申し立て─
(1)救済を求め続けた飯塚さんとの出会い
宮城県在住の飯塚さん(仮名)は、1946(昭和21)年、宮城県内の漁村で7人兄弟の長女として生まれる。父は病弱、母は行商など貧しい家庭であったようである。宮城県では1950年代から60年代、「愛の10万人県民運動」が繰り広げられ知的障害者の施設を造るための募金運動が行われていた。その設立趣意書には入所者へ優生手術を積極的に行うことも明記されていた。飯塚さんは民生委員により福祉事務所へ通告され、知能テストを受けさせられ、1960年4月、開所したばかりの小松島学園に入所させられる。中学3年で卒業後、知的障害者を預かり更生指導をする職親に預けられる。1963(昭和38)年1月から2月、16歳のときに知的障害を理由に何の理由も説明されないまま不妊手術を受けさせられた。手術当日も職親から「いくよ」と告げられ、仙台市内の優生手術専門の診療所につれていかれた。当日は父親も病院にはいたという。その時点で保護者としての同意書を取られたようである。
手術の内容を聞いたのも、手術から半年後、両親の会話を盗み聞きし、初めて子どもが産めない体になったとことを知り大きなショックを受ける。
それゆえ、数度の結婚にも失敗した。子どもが産めないことが大きな原因であった。
1997年、飯塚さんは「優生手術に対して謝罪を求める会」が行ったホットラインに被害の申し出をし、その後20年の長きにわたり、国などに謝罪と補償を求め続けてきた。
救済を困難にした一因は「除斥期間」の壁と、飯塚さんの場合、優生保護審査会および優生手術台帳など、宮城県になくてはならない関係記録が廃棄されていたことによる。しかし、飯塚さんは何度も関係機関へ情報公開を求め、手術直前と考えられる1963年1月の宮城県精神薄弱更生保護相談所での診断を受けた記録はかろうじて出てきている。それによると、「優生手術必要」と記載されている。
2013年8月、ある相談会で筆者が相談を受けるものの、筆者には何の知見もなく、継続相談、調査によって、飯塚さんは優生保護法による優生手術によって子どもを産むか否かの自己決定権が踏みにじられたこと、1996年、障害者差別であるとして優生手術が廃止された以降も、厚労省(旧厚生省)は、「当時は合法であり、国は謝罪も補償も調査もしない」との態度で救済を切り捨ててきたことがわかった。
2015年6月、飯塚さんは日本弁護士連合会(日弁連)に人権救済の申し立てを行った。
(2)全国原告第1号佐藤さんとの出会い
この申し立てを契機として、2017年2月、日弁連が、優生思想による不妊手術および人工妊娠中絶手術は人権侵害であるとの意見書を公表する。これが大きくマスコミで取り上げられ、その報道を見た佐藤さん(仮名)の義理のお姉さんが飯塚さんの代理人を務めていた筆者に連絡してきた。その後、佐藤さんが宮城県に個人情報の開示を請求して、佐藤さんが15歳のときに「遺伝性精神薄弱」として優生手術を受けたことを示す優生手術台帳が出てきた。実は佐藤さんは、1歳過ぎに唇の手術をし、麻酔が効きすぎてその手術の後遺症で精神疾患が発症した(療育手帳で確認できる)とのことであり、審査の手続きも極めてずさんといえる。
(3)国家賠償法による提訴
優生手術の問題についてはドイツ、スウェーデンなどすでに国が謝罪をし、補償を行っていることとは対照的に、日本においては、なんら救済への動きも行なってこなかった。国際的にも大きな批判が高まり、1998年以降数度にわたる国連人権規約委員会からの勧告、2016年国連女性差別撤廃委員会からの勧告がなされている。
飯塚さん、佐藤さんの義理のお姉さんおよび謝罪を求める会などが厚労省に国からの謝罪と補償を求めるも、それを一切拒否するのが厚労省の一貫した態度であった。
そこで、最後の手段として、2018年1月30日、全国で初めて佐藤さんが仙台地裁に国家賠償の訴訟を提起し、同年5月17日、飯塚さん、札幌の小島さん(仮名)および東京の北さん(仮名)が2次提訴した。同年9月28日の第4次提訴まで全国の原告は13人、うち手術原告は10人、その配偶者3人が家族形成権を侵害されたとして提訴している。なお、飯塚さんについては、第1次提訴後、宮城県知事が記者会見で、宮城県が認める基準としての4要件(当事宮城県に在住、関連記録がある、手術痕があることおよび証言が一貫していて信用できる)に合致するとして手術を受けたことを認めるとする。運動が宮城県知事も動かした。
この裁判で何が問われているのか
1948年、国会は旧優生保護法を全会一致で成立させた。人権保障を定めた、新憲法が施行された直後であった。
人口増加による食糧難による人口減少政策によって、「民族の逆淘汰が生ずる」などの「公益」を理由に、障害者などの生殖の権利が侵害された。残念ながら国民のなかでも一定時期まで、是認されてきていた。
1996年、優生保護法の差別性が問題となり、法改正がなされたが、すでに述べたとおり、過去の被害者への補償がまったく俎上に載らなかった。
では、いま、何が変わってきたのか。原告ら被害者は、少なくとも優生手術を廃止した1996年以降、除斥期間(被害の時点から20年を経過した時点で請求ができなくなる制度)を問わない国家賠償法の特別法を作ってこなかった立法不作為が違法であるとし、国の責任を明らかにしようとしている。被害者が声を上げ、メディアがその問題性を大きく継続的に報道を続けている。佐藤さん、飯塚さんの 事件が継続している仙台地裁の中島基至裁判長は、「本件において、旧優生保護法に係る規定の憲法適合性に関する判断は、国家賠償法にいう違法性の判断に先行するところ、本件における憲法問題の重要性、社会的影響等を踏まえると……裁判所は、その必要性に鑑み、本件において憲法判断を回避する予定はない」との態度を示すなど、被害回復に向け大きく前進している。隠されてきた被害者が声を上げることで社会を変えられるかがいま、まさに、問われている。
「人権」はやはり与えられるのではなく、自ら勝ち取って行かねばならないし、それをサポートできる社会でなければならない。我々法曹も、20年前に「除斥期間」の壁を超えて、権利救済に立ち上がれなかったことへの反省をこめて一緒に戦っている。
都道府県の手術件数、記録の保管状況
(1)都道府県による手術件数の違い
たとえば、同意によらない不妊手術件数は、合計1万6518件である。
そのなかで、手術件数が500件を超えるのが北海道2593件、宮城県1406件、岡山県845件、大分県663件、大阪府524件となっている。他方、手術が50件に満たないのは、沖縄県2件、鳥取県11件、奈良県・群馬県各21件、福井県37件となっている。
北海道、宮城県では、道民・県民運動が大々的に繰り広げられ、それが手術件数の拡大した大きな要因となっている。
宮城県では、1962年10月の宮城県議会で、県議からの質問で、手術件数を上げることが提案されている。
(2)記録の保管状況
2018年9月6日付、厚生労働者の「旧優生保護法関係資料の保管状況調査の結果」によると、約2万5000件の手術件数について、手術の実施について個人が特定してあるのは、3033件であった。その余の約2万2000人の記録はない。被害者の救済をはかる上では極めて由々しき事態である。
都道府県においても、個人が特定できる件数の最大は宮城県900件、北海道821件、埼玉県330件、千葉県318件、他方、本人特定資料がまったくないというのは31県に及んでいる。今後、補償の制度ができても、手術した都道府県によって、まったく救済のレベルが異なることが懸念される。
差別のない社会を目指して
(1)放置されてきたことの検証が不可欠
旧優生保護法による被害について、超党派議連、与党ワーキングチームでも提訴を受け補償法の策定の議論が急ピッチで進んでいる。しかし、旧法が成立してから70年間にわたり、優生手術の廃止がされながらなぜに謝罪や補償がなされなかったのか、検証が不可欠である。ハンセン病の隔離被害についても、詳細な検証がなされている。
(2)多くの被害者の救済をどうするか
すでに述べたとおり、旧優生保護法が成立してから70年、母体保護法に改正されてからでも22年、長い時間の経過によって、貴重な書類が破棄されている。公文書管理のあり方も再検討されなければならない。
本人特定がなされた人への補償制度の通知は不可欠であり、それ以上に、被害者の障害の状況などに即した支援のあり方が検討されなければならない。被害者のプライバシー侵害を理由に通知をしないことが検討されているが、それでは被害者への国の謝罪は届かず、被害者に向き合わないことになるだけでなく、多くの被害者の被害回復もはかれない。
記録のない人についても、どう広報するのか、それ以上に各障害者団体とも協議を行い、適切な情報提供のあり方を定めていく必要がある。
そのなかで、自治体職員の役割も重要になってこよう。日本全体で、被害を隠してきたことを反省しながら、優生思想を克服し、多くの被害者の救済をはかっていかなければならない。