【論文】「山里ツーリズム」への模索―九州脊梁の「日本遺産」登録を見据えて

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九州脊梁の過疎山村地域における「山の道」を再生整備し、それらを通して山・川を巡り、里々の生活文化を訪ねる「山里ツーリズム」を立ち上げ、それらを基盤とする「日本遺産」登録を目指します。

はじめに

標題に記した「山里ツーリズム」は、筆者が2000年頃に使いだした言葉です。その契機となったのは1994~2002年、イタリアアルプス西部山村調査の際に出会った、家畜を移動させるための牧道を復活、ネットワーク化しようとする取り組みです。山村調査の機会が多かった大学教員時代末の8年間、熊本の地での「山里ツーリズム」の可能性を強く意識するようになりました。

その中身は、九州脊梁地域に点在する小集落(山里)に、少なくとも1960年代までは存在した「山里の暮らしの体系」の一部を再生・資源化し、それらの山里を、再生整備した「山の道」を通して巡る新しい性格のツーリズムというものです。そして、その成立を通して、過疎・荒廃に瀕した当地域の森林環境、山里の生活条件を、現代的視点に立って再生、継承する方策を探ることを大きな目的としています。熊本県では、五家荘・五木村・水上村・山都町・美里町、宮崎県で椎葉村を対象地域として想定しています。

九州脊梁地域

当地域におけるツーリズムの概要

すでにこの地域では、①平家伝説等の歴史や、豊かな自然とその季節的変化、山菜や猪・鹿、渓流魚などの料理、神楽などの伝統文化を求める旅行者、②渓流釣り客、③山歩きの登山者などが訪れ、それらを受け入れる民宿等が少なからず存在しています。全体としては、県道や一部林道を使い、車を利用していわゆる「観光名所」を巡り、民宿に宿泊して料理を楽しんで帰る①に属するツーリストが大半で、②、③はリピーターです。

当地域における森林環境の現状と問題点、その要因

当該地域では1960年代以降、拡大造林事業、林道開発事業が本格化しました。その林業も1970年代以降、不振に陥ります。また、その他林産物の生産・移出の激減、自給自足経済から現金経済への転換による農林業外の就業機会を求めての大量の離村が進みました。拡大造林の結果、森林の多様性、森林資源活用の多様性は大幅に減少し、現在では、一部の狩猟者等を除けば、日常的な周辺山林への入りこみは激減し、その範囲も大幅に縮小されるに至っています。山里に暮らす人々ですら、集落を取り囲む森林環境に対する認識を低下させることになっています。

地域住民、都市住民の山林環境に対する関心・認識が薄れるなか、特にこの二十数年間、①山腹林道の強引な建設、②鹿による樹木への食害と下草の枯渇による林床の乾燥、酸性雨などによる広葉樹、特にブナの大量枯死、③林業不振から来る、人工林の必要な除間伐の放棄、大規模皆伐と植林放棄等─災害要因が蓄積されてきました。そして、近年の連続した台風や豪雨によって山腹崩壊、その土砂の流入による渓流・河川の河床埋没等の環境の激変が顕在化したのです。

白骨化した広葉樹が集中する尾根筋
白骨化した広葉樹が集中する尾根筋
山腹崩壊│土砂で埋まった谷
山腹崩壊│土砂で埋まった谷

「山の道」の現状

当該地域における牛馬道、人道、木馬道などの「山の道」は、明治末の陸軍測地図によれば、総道路延長の99・5%、1019キロメートルを占めていました。その後、1950年代まで増加傾向にありましたが、拡大造林事業が本格化するなか、車通行可能な林道開削が大幅に進み、1990年代には総延長中の54・2%、1034キロメートルとなっています。このように地図上の限りでは「山の道」は、その痕跡を多く残していますが、牛馬道、木馬道は大幅に減少し、ほぼ使われなくなっています。

山の道
山の道

「五木街道」との出会いから「山の道」再生へ

熊本県での「山の道」との出会いは旧坂本村日光、五木村内谷集落間を馬の背に乗って嫁入りしたという「五木街道」の探索でした。また、各集落を最短距離で結ぶ「郵便道」があったことも知りました。その後、熊本県水上村、五家荘、五木村、宮崎県椎葉村にまたがる県境(分水嶺周辺)へと調査範囲を拡大していきました。

2006年には水上村古屋敷から椎葉村不土野、小崎、川の口に至るルートのうち、小崎峠付近までの約3キロメートルを、地元の方々の協力を得て再生整備することができました。

2007年からは、宮崎県椎葉村に調査の重点を移し、小崎峠道に関係する地域、五家荘樅木と結ぶ「ぼんさん越」に関係する地域(いまも焼畑耕作を継続)等での「山の道」、山里の暮らしに関する調査をつづけました。

2008年からは、五家荘での調査に重点を移し、そのなかで、「五家荘振興会」との交流ができるようになり、現在に至っています。2010年には、椎葉村の川の口で、民宿経営を開始した3軒の方々を通して「山里ツーリズム」の考えを伝え、集落のみなさんの協力もいただいて小崎峠から川の口までのルートを再生整備しました。また、川の口の神楽に招かれた機会に、再生したこの道を使って水上村古屋敷から小崎峠を経て川の口まで歩き、夜通しの神楽終了後、歩いて戻るという「山里ツーリズム」の試行もしています。

強い「山の道」への思い

川の口集落では、小崎峠道を通った経験者から、「病人は戸板に乗せ2時間かけて古屋敷に運んだ」、「湯前、水上の祭りには泊りがけで出かけていた」、「人吉で買ってもらった自転車を自らかついで喜び勇んで帰った」等々、道にまつわる話を多く聞くことができました。五家荘でも同様で、また、「芋煮坂」など当時の暮らしぶりを偲ばせる地名も多く聞くことができました。いまはほとんど使われなくなった「山の道」ですが、それらにまつわる記憶・思いはいまも脈々と生き続けているようです。

「日本遺産登録」を加えた現在の取り組み

定年退職間近、五木村の委託で全世帯調査を基に、ダム無しの五木の復興・再生方策を考える機会を得ました。また、長年、川辺川問題に取り組んできた立場から、球磨川水系のダム無し治水計画が進展しない膠着状態の打破も考えなければなりませんでした。これらのことを通して、「川を治水だけから考えるのではなく、山を含め、流域に暮らす人々と深く関わってきた重要な自然・文化環境と捉えるべきだ」と考えるに至りました。

くしくも、山里ツーリズムの対象としてきた地域のかなりの部分は川辺川(五家荘・五木村)、球磨川(水上村)の源流地帯であったのです。そして、重要な独自の文化と歴史を持ったこれらの地域を消滅させてはならなとの思いを一層強くし、「日本遺産登録」という発想が加わりました。

5年のブランクはありましたが、上記した地域のみなさんとのお付き合いは継続していましたので、まずは五家荘、五木村のみなさんに、改めて日本遺産登録と山里ツーリズムの立ち上げについて話を持ち込みました。

現在は五家荘振興会のみなさんとの話し合いや、道づくり作業参加を中心とした取り組みを再開しているところです。また、椎葉村観光協会への働きかけも始めています。

五家荘では、登山道整備を進め、観光客の入込数を増やしてきましたが、近年、その数が大きく減少し打開策を模索している状況です。そのことから山里ツーリズムと日本遺産登録に対する期待を持っていただいているようです。椎葉村では、特に「山の道」を通した山里ツーリズムに対して強い関心を示されました。両地域間には昔からの関係があり、上記の「ぼんさん越」は五家荘樅木と椎葉村向山日添を結ぶルートで、この道の再生を両地域共同で行うことで、具体的な連携につながることが期待されるところです。また、五木村との関係では、五家荘久連子から五木村梶原への「山の道」も両地域の連携が期待されるルートです。

おわりに

「仕切り直し」の形となった取り組みは緒に就いたばかりですが、おわりに、このプロジェクトを進める上で留意すべきと考えていることについて述べておきたいと思います。

まず「日本遺産登録」についてです。この登録手続きは当該市町村、複数にわたる場合は都道府県が行うことになっています。筆者の経験では、「行政主導」では制度の枠組みに拘泥した形式重視のものになりかねないという懸念があります。したがって、地域住民が主体的に自信を持って「中身」を作り上げることを最優先し、最後の手続きの段階で行政の手を借りるという進め方を大事にしたいと考えています。

次に、山里ツーリズムについてです。

①マンパワーを考慮しながらできるだけ多くの起終点を設定し、全域をカヴァーし、登山道ともつながる多様なルートを設定する。②各地のお祭り、伝統芸能、季節ごとの風景などと組み合わせ、山里の自然・歴史・伝統等も共に体験し味わえる広がりを持たせる。③山や川の荒廃した状態を、来訪者が身をもって体験し考える機会を提供する。④過剰な来訪は避け、「お客様」扱いはせず、「人間同士の交流」を大事にする、等々です。

今後は五家荘、椎葉村、五木村を中心にしながら、山都町、水上村、美里町に広げて行くとともに、地域への経済効果をもたらす仕組みや山里ツーリズムに対する需要のありようについてもみなさんと考え研究していきたいと思っています。

【注】

  • 1 焼畑による雑穀(稗、粟、黍、そば等)・豆類、野菜、山茶の生産、家禽の飼育と狩猟・漁労による動物性たんぱく質生産が自給の基本となる。加えて小豆、茶、椎茸、筍、杉・桧・欅・桜等の建築用材、薪炭、動物の毛皮、和紙原料や枕木、坑木、バット、下駄材、接着剤(とりもち)、砥石等の原材料を生産し、それらを町場や他集落に移出して、当該地域内では確保できないさまざまな物資─米、塩、味噌、醤油、焼酎、海産物などの食料品、薬、衣類等─を得ていた。
  • 2 町場、あるいは集落間の交易・交流の手段として使われていた①馬や牛の背に荷を積んで運ぶ「駄賃付け(取り)の道」、②人が荷を背負って運ぶ「人道」、③建築用材を切り出す「木馬道」(樫の木製の橇(木馬)で、伐採した木材を集材場まで人力で下ろすための木道)などがある。その他では僧侶が檀家の集落を巡るための「ぼんさん道」、郵便配達人が通う「郵便道」などもあった。当然これらの道は仕事を求めて通う道でもあり、婚姻関係を繋ぐ道でもあった。レクリエーションのための「登山道」とは異なる山の生活道。
中島 熙八郎

1977年京都大学大学院工学研究科建築学専攻博士課程を経て、熊本県立大学に赴任。2012年定年退職。専門分野は農村計画学。2014年からくまもと地域自治体研究所理事長。現在に至る。

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