【論文】「新型コロナ特措法」と民主主義・地方自治

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「緊急事態」という言葉を聞くと、日頃では許されない人権や権利の侵害がいとも簡単に許されがちになる。「緊急事態」でも守らなければならない法と民主主義・地方自治の問題をちょっと冷静に考えてみよう。

何らの根拠もない楽観と悲観はやめよう

新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大が止まりません。私たちの誰もが、いつでも、どこでも、感染者となり、同時に、感染源者(宿主)となるリスクを負っています。そんなコロナ禍の脅威を理屈ではわかっているものの、「まさか自分は感染者にも感染源者にもならない」、「うつりもしないし、うつしもしない」といった何の根拠もない楽観に支えられ、私たちはこれまで日常生活を送ってきました。しかし、世界保健機関(WHO)のパンデミック宣言があり、すでに世界では220万人以上の感染者と15万人以上の死亡者、日本でも1万人以上の感染者と200人以上の死亡者(2020年4月18日現在)が出て、改正「新型インフルエンザ等対策特別措置法」(以下、新型コロナ特措法)に基づく緊急事態宣言のもとで日常生活を余儀なくされるとなれば、緊張せずにはいられません。だからといって、今のところ有効な治療方法も治療薬も見出されていない新型コロナウイルスに屈して、何の根拠もない悲観に陥ってはいられません。

そこで本稿では、はたして日本政府が、国民のいのちと暮らしを守るために、やるべきことをやらず、やってはいけないことをやってはいないか。そして、私たちは、何をどのように考え、何をしなければならないのかについて、専ら行政法研究者の立場から考えてみたいと思います。

日本政府のコロナ対策の「過ち」と「遅れ」

新型コロナ感染拡大防止対策の基本は「検査と隔離」対策のようですが、なぜか、日本は「クラスター(感染集団)」対策を重視してきたようです。医療の専門家ではないので、ほんとうのところ何が有効な対策かはわかりません。ですが、クラスター対策では、感染者との接触者を正確に把握し、感染ルートを追跡し、感染集団を突き止めて封じ込めるために、保健所や衛生研究所(国立感染症研究所、地方衛生研究所など)といった検査専門機関と高度な検査データが不可欠であることくらいはわかります。

ところが、この検査を担うべき保健所数は、ここ30年ほどの「行政改革」でほぼ半減しており、保健師など保健所職員の非正規化も顕著です。とても公的な公衆衛生機関の役割を担えるような状況にはないといってよいでしょう。このような保健所に複雑な検査手続きを強いれば、そのキャパシティーを超えることは明白で、検査数が上がらないばかりか、感染拡大防止に失敗することは明らかでした。これまでの地方の公衆衛生行政の実態を顧みないまま、クラスター対策を選択したことに、そもそも過ちがあったといえましょう。

しかも、なぜ「検査と隔離」を徹底しなければ「感染爆発」を抑えきれないという事態にいたっても、クラスター対策を取り続けたのでしょうか。それは、コロナウイルス感染症対策よりも、東京オリンピック・パラリンピック開催を優先するという価値判断の過ちを犯したからに違いありません。新型コロナ感染者のみかけの数を抑制するために、PCR検査数を絞り続け、開催可能をアピールするしかなかったのではないかというのが推測です。これを行政法学的に表現すると、なにより新型コロナ感染症の脅威から国民のいのちと暮らしを守るという、本来最も重視すべき事項を不当・安易に軽視し(要考慮事項の軽視)、そのために当然尽くすべき対策を怠り、また、本来考慮にいれるべきでないオリンピック・パラリンピックの開催といった事項を考慮にいれ(他事考慮)、これを過大に評価すべきでないにもかかわらず過重に評価した結果(過大評価・過重評価)、もしかしたら回避できたかもしれない「感染爆発」を招いた瑕疵ある政策選択であったといえるのではないでしょうか。

実際、オリンピック・パラリンピックの開催延期の発表があった3月24日以降の感染者数の爆増は、いかにそれまで感染者数が抑え込まれてきたかの証左に思えてなりません。

「新型コロナ特措法」の成立

2019年末にはすでに中国発の新型コロナウイルスのヒト・ヒト感染が確認されていたにもかかわらず、政府は、中国の旧正月・春節期における訪日客を制限することなく、いわゆる「水際作戦」に失敗しました。その結果といっていいでしょうが、国内感染が急速に拡大しました。そして2月25日には、新型コロナウイルス感染症対策本部が「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」を発表し、これに続いて2月28日に安倍首相が、3月2日から春休みまでの間、全国小中高校の一斉休校措置を要請する事態となりました。教育現場や保護者等の混乱は酷いものでしたが、100%に近い学校が休校措置を講じました。この間、中国の訪日客数が多かった北海道では、逸早く「感染爆発」が生じ、知事は、何らの法的根拠がないにもかかわらず、外出自粛などを求める自主的な「緊急事態宣言」を出さざるを得ない状況に追い込まれ、各地で緊迫した事態が続きました。

もはや感染拡大がとめられない状況が続くなか、3月13日、ようやく「新型インフルエンザ等対策特別措置法」を改正して、その「附則」第1条2において、「令和2年1月に中国より世界保健機関に対して、人に伝染する能力を有することが新たに報告されたものに限る」「新型コロナウイルス感染症」を「新型インフルエンザ等」(同法第2条第2号)とみなす「特例」が定められました。この改正法は、新型コロナウイルス感染症を「新型インフルエンザ等」とみなして適用することから、一般には、「新型コロナ特措法」と呼ばれることになります。これによって、同法の「新型インフルエンザ等」感染症には該当しませんが、同法の適用対象となる感染症とされることになりました。

「新型コロナ特措法」の仕組みと「緊急事態宣言」・「緊急事態措置」

この「新型コロナ特措法」には、「新型インフルエンザ等緊急事態宣言(以下「緊急事態宣言」という)に係る各種の措置は国民生活に重大な影響を与える可能性のあることに鑑み、定められた要件への該当性については、多方面からの専門的な知見に基づき慎重に判断すること」をはじめとする20項目の留意点が附帯決議(衆院)されているところから、事の重大性は十分に認識されていることがわかります。

さて、「新型コロナ特措法」が定められたことで、何がどのように変わったのでしょうか。「新型インフルエンザ等対策特別措置法」そのものは変わったわけではないので、規制の内容や手法が変わったわけではありません。しかも、「附則」第1条の2第3項によれば、改正前に「新型インフルエンザ等」に関して定められた政府行動計画、都道府県行動計画、市町村行動計画等は、「新型コロナ特措法」においても、「新型コロナ感染症」を含むものとみなされることになっています。結局、「新型コロナ特措法」の意義は、専ら「新型コロナ感染症」に対する緊急事態宣言等の諸措置に法的根拠を与えるということしかないことがわかります。

「新型コロナ特措法」の目的は、「新型インフルエンザ等の発生時において国民の生命及び健康を保護し、並びに国民生活及び国民経済に及ぼす影響が最小となるようにすること」とされていますが、同法の仕組みは、そもそも「武力攻撃事態等において、武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護し、国民生活等に及ぼす影響を最小にするための、国・地方公共団体等の責務、避難・救援・武力攻撃災害への対処等の措置」を規定する「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」(通称「国民保護法」)に倣ったものといわれています。したがって、これらの共通の性格は、非常事態に対処する危機管理法であるということに注意したいと思います。

「新型コロナ特措法」の内容を見ると、内閣総理大臣は、新型インフルエンザ政府対策本部長として、国、地方公共団体、指定公共機関、指定地方公共機関等に対する総合調整権を有しますが、緊急事態措置を具体的に実施する都道府県対策本部長である知事の権限はかなり広いのです。たしかに緊急事態宣言は内閣総理大臣の専権事項ですが、宣言の期間、区域、概要を定め、国会に報告することとされています。緊急事態措置は、たとえば「まん延の防止に関する措置」、「医療等の提供体制の確保に関する措置」、「土地等の使用」、「国民生活及び国民経済の安定に関する措置」にわたります。緊急事態宣言発令後の緊急事態措置の具体例は、外出自粛要請、興行場、催物等の制限等の要請・指示、緊急物資の運送の要請・指示、政令で定める特定物資の売渡しの要請・収用、埋葬・火葬の特例、生活関連物資等の価格の安定、行政上の申請期限の延長等、政府関係金融機関等による融資などです。しかし、緊急事態措置に対する「財政上の措置等」は、ごく限られた「処分」に対する「損失補償」と医療等の実施の要請を受けた医療関係者に対する「損害補償」が定められているだけです。

「新型コロナ特措法」に基づく要請・指示と「補償」

2020年4月7日、7都府県を対象区域とする緊急事態宣言、さらに4月16日、全国を対象区域とする拡大緊急事態宣言が発令されました。都道府県は、直ちにどのような具体的な緊急事態措置をとるかを迫られることになりました。なかでも各種事業者に対する「休業要請」に伴う「休業補償」の可否が最大の争点となりました。すでに見たように「新型コロナ特措法」には、「休業補償」の条項はありません。しかも、どの緊急事態措置にも、罰則等による実効性の確保手段は用意されておらず、「要請」あるいは「指示」といった法的拘束力のない「お願い」あるいは「名ばかり強制」の手段が用意されているだけです。じつに、「要請」は43カ所、「指示」は16カ所に用いられています。この法の仕組みからすると、行政の「休業要請」に応じた事業者は自主的に行政指導に応じただけであり、その限りで損失補償の必要はないという法の論理でしょう。このような国の「補償なき休業要請」論に対しては、すぐさま東京都などが、「休業要請と国による補償はセット」であり、もし国が応じないならば、独自の「協力金」を支給するなどと応じました。緊急事態宣言が全国化したいまとなっては、全自治体の最重要課題となっています。

このような議論のやりとりを見ていると、国が緊急事態宣言の発令を躊躇していたのは、国民の基本的人権・私権の制限につながる規制に慎重であったわけではなく、単に補償、つまりお金の問題だったことがわかります。国家による「強制」と国民による「自制」との間に密かに忍び込む「要請」という巧妙な行政手法に気づかされます。

そこで、あらためて緊急事態宣言の意味について真考しなければなりません。外出自粛や休業要請と簡単にいいますが、いのちと経済との微妙なバランスの上に立つ生活者にとっては、とくに生活がいつも危機にある「弱者」・「少数者」にとっては、経済死か感染病死かの選択を迫られる緊急事態です。目先の現金給付の額だけにとらわれた早急な帳尻合わせは無用です。緊急事態宣言は、本来、もろすぎる社会の実態に眼をやる「緊急事態補償宣言」であるべきであり、あるいは、いのちの選別を許さないための「緊急事態人権保障宣言」であるべきです。いみじくも「新型コロナ特措法」は、「国民の生命及び健康を保護」するだけではなく、「国民生活及び国民経済に及ぼす影響が最小になるようにすること」を目的としているではありませんか(第1条)。もし「新型コロナ特措法」が、緊急事態措置にかかる「要請」と「指示」に応じた国民のいのちや暮らしを奪うことがあれば、そのような法律は憲法の許すところではありません。休業要請に対する「補償」はもちろん欠かせませんが、休業後の仕事の「保証」がなければ生きていけません。これが整ってはじめて、憲法の生存権・生活権が「保障」されたといえます。国による「補償」・「保証」・「保障」の三位一体がなければ、コロナ危機は乗り越えられません。

メルケル「私たちが民主主義(Wir sind eine Demokratie)」

「新型コロナ特措法」の緊急事態宣言は、あくまでも公衆衛生緊急事態(Public Health Emergency)に対応した感染症対策特有の緊急事態宣言であるにもかかわらず、さっそくこれを憲法の緊急事態条項に絡める動きが出ています。不要不急の外出・集会自粛要請の最中、衆議院憲法審査会の新藤義孝与党筆頭幹事が「緊急事態における国会機能の確保」について、憲法審査会での議論を野党に呼びかけ、実際、自民党憲法改正推進本部会議は強行されたと聞きます(4月10日)。これは、新型コロナウイルスに便乗した、もう一つのウイルス、「改憲ウイルス」というしかありません。新型コロナ危機に直面したいまくらい、緊急事態条項の創設といった改憲の邪念を捨てて、世界史上まれに見る公衆衛生緊急事態に対して、まずは、国民一丸となって、前例のないほどの透明で公正で民主的な政治的意思決定で臨めないものでしょうか。

憲法学者・水島朝穂氏のHPの「今週の直言」(4月13日)で、「何のための『緊急事態宣言』なのか─『公衆衛生上の重大事態』に対処するために」が論じられ、ハーバード大学教授のホルガー・シュパマン「前例のない自由の侵害は前例のない透明性を必要とする」(Holger Spamann, Beispiellose Freiheitseingriffe brauchen beispiellose Transparenz)という題名の論文が紹介されています。原文を読みましたが、新型コロナ対策措置が私たちの基本権(とくに自由権)侵害を余儀なくする場合にあっても、民主主義国家である限り、措置とその目的・手続とを区別することが肝要であり、措置そのものが早期の段階から透明性を持つことが措置の実効性確保のうえで欠かせないという主張です。新型コロナ感染症対策が前例のない人権侵害を伴うものであるならば、前例のない透明性を確保することが不可欠であるというのです。政策意思決定過程が不透明な日本政府に対して、国民に信じてほしいというのならば、信じられるだけの透明な意思決定過程を示せという警告として受け止めたいと思います。

これにかかわって、ドイツ連邦首相のアンゲラ・メルケル氏のテレビ演説(3月18日)が際立ちます。まずは、新型コロナ感染症とのたたかいが、政治的意思決定を透明化し、説明し、その行為を根拠づけ、対話する開かれた民主主義の問題であり、国民全部の問題であることを印象づけます。全演説を通して、一人ひとりの人間をしっかりとらえ、個々の人間のいのちと生活の集合体としてゲマインシャフト(共同体)をとらえる視点が明確に示されます。秀逸なのは、「『私たちが民主主義である』(Wir sind eine Demokratie.)、『強制』(Zwang)ではなく、知識の共有と共働(Mitwirkung)を契機として生きている。これは『歴史的任務』であり、共同して果たすべき任務である」と言い切るところです。基本法(憲法)第1条に「人間の尊厳」を掲げる国の首相らしい言葉です。私たちも、コロナ対策だけでなく、「私たちが民主主義である」といえる連帯と社会的絆を築き上げたいものです。

白藤 博行

名古屋大学法学部卒業、同大学院法学研究科博士課程(後期)単位取得満期退学。日本学術会議会員。著書は、『地方自治法への招待』(自治体研究社)、『民主的自治体労働者論―生成と展開、そして未来へ』(大月書店)、など。

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