新型コロナウイルス感染症の流行とそれへの対応から見えてきた、日本の保健行政の弱点と今後の課題について考えます。
グローバル・ネットワーク社会の新興感染症
本稿では、7月上旬までの状況をもとに、新型コロナウイルス感染症(以下、新型コロナ感染症)への対応からみえる日本の保健行政の課題を考えていきます。対策に取り組まれているすべての関係者に敬意を表しつつも、より効果的な新興感染症への備えを形成するために、対策の中で見えた弱点、課題を中心に考えていきます。
新型コロナ感染症のパンデミックは、グローバルなネットワーク社会で生じた初めての大規模な感染流行となりました。世界各地の感染状況と政府の対応、関連する社会・経済上の出来事の情報が多様な手段で共有されました。しかし、この感染症の性質は当初不明なことが多く、研究と対策形成を同時に行うことが求められました。感染経路、潜伏期の有無とその期間、感染を防ぐために有効な行動変化と環境措置、感染者の中での重症化の割合と回復の経過など、今日ではかなり明確になっている事項も流行初期においては不明確だったのです。このような未知の感染症への対応は相当困難で手探りを含む課題となりますが、そうであるからこそ、今後の備えに向けて一連の対応における課題を検討することが重要です。
一連の対応の全体的な流れは、SARSやMERSの流行を受けて整理されてきた対策の流れ(2012年の「新型インフルエンザ等対策特別措置法」(以下、特措法)によって策定されていた「新型インフルエンザ等対策政府行動計画」(以下、行動計画))におおむね沿っています。政府は1月末から対策本部を、2月中旬から専門家会議を設置し、主にそこでの検討をもとに政策を決定してきました。ただし、2月27日に安倍首相により行われた小中学校等の休校要請など、官邸主導の政策も行われました。
まず、指摘しておかねばならないのは、今回この行動計画による対策に踏み込むのにかなりの時間を要したことです。国内での感染発生後、専門家会議が設置されたのが2月14日、戦略を示す基本方針(新型コロナウイルス感染症対策本部「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」)が決定されたのは2月25日でした。流行開始から2カ月、中国・武漢の閉鎖および国内感染例の報告から3週間以上たってからのことです。流行地域からのチャーター便による日本人の帰国や、横浜港に寄港したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客・スタッフへの対応という過去にない案件への対応がなされていたとはいえ、この戦略形成に要する時間をいかに短縮するかは今後検討すべき課題です。また、当初から指定感染症として感染症法・検疫法による対応が行われましたが、特措法での対応が定まるのにも2カ月以上を要し、状況に応じた迅速な法的枠組みの確立という点での課題を残しました。
実現方策の形成・実施・修正の機動性
今回の対応では、戦略を実現するための方策について、特に疾病の性状に応じた新たな対策の実施という面での課題が残されました。まず、感染拡大の抑制に向けて、当初クラスター対策が強調され、それとの関連で手洗いと咳エチケットの励行など従来からの行動指針に加えて、クラスター発生の洞察をふまえた「3密」を避ける行動指針の普及が行われました。ただし、感染を防ぐために物理的な距離をとることについては、緊急事態宣言後に普及したので、欧州諸国よりやや遅かったようにも思われます。もっともその後世界的に普及したマスクの着用については、長年の慣習もあり早期から取り組まれており、結果的には良い影響をもたらしたと考えられます。
PCR検査の実施方策については、方針策定の問題と実施方策の両面の課題を指摘できます。まず、戦略上の位置づけの不明確さです。限られた対応能力をふまえ、初期において検査適用者を限定したことはセカンド・ベストの方策としてありえたことでした。しかしながら、当面代替手段のないPCR検査の対応能力を増やすことは、感染症制御において戦略的な位置づけを与えられ、速やかに実行されるべきことでしたが、こうした位置づけはなかなか明確とならず、結果的に3月末の検査実施において遅延等の問題が生じました。対応能力の拡大は今後さらにすすむと思われますが、諸外国で生じたような急激な流行拡大が生じた場合に対応できる体制を、抗原検査の開発と実装をにらみつつ、早急に確立することが求められています。
これとあわせて、症状の有無、重症度に応じた経過観察・治療場面の振り分けについても、定められていた戦略の実施がやや遅れたように思われます。行動計画では、感染性が不明の時期では指定医療機関への入院とし、感染患者を一般の医療機関でも診られるようになった場合には軽症者は在宅療養に振り分けるとありますが、新型コロナ感染症では重症化した患者の治療には長期を要する場合も多く、感染が広がる前から治療体制の逼迫が課題となりました。政府は2月25日の基本方針において、そうした対応を実施できる準備を都道府県に依頼し、その後4月半ばから各地で軽症者の病院外療養が行われましたが、そのような対応の中で病床がぎりぎりという状況になったという県もあります(読売新聞、2020年5月15日)。もっとも、急激な重症化の後に死亡された事例が出てから、自宅ではなくホテル等での療養をすすめる方針への転換は素早く行われました。幸いにして重症者の医療を行えないという事態は回避できているようですが、この軽症者の療養の場の確保は現在でも継続している課題です。再び重症者数が増加した場合に、状況に応じて素早く実施する態勢を整えていくことが急がれます。
現在、各地で整備されている地域外来・検査センターのように、既存技術を新方式で実施するのは行政対応の問題であり、ここでも実施のスピードに課題が残りました。韓国でのドライブスルー方式の検査が日本で報告されたのは2月末であり、新潟市の保健所のようにこの仕組みにいち早く取り組んだ施設もありましたが、新規確認者が多数であった地域でもなかなか具体化はすすみませんでした。厚生労働省が名称をあげて関係通知を行ったのは4月15日ですが、感染拡大が速い場合には数週間の遅れが大きな影響を及ぼす可能性もあり、より迅速な対応が望まれます。もちろん、先の保健所の例にあるような単独施設での検査方式の工夫とは異なり、新たな検査拠点を作るためには資源や人員の確保という悩ましい問題も出現します。7月上旬においては、この問題への見通しがついてきていますが、新しい疾患の特徴をふまえて、既存技術をもとにして実施できる新しいサービス供給をさらに迅速に導入するための仕組み(リーダシップのあり方も含めた)は検討されるべき課題です。
新興感染症への自治体の対応力
感染症対策では地方自治体、とりわけ都道府県・保健所政令市が主な実務を担いました。また、特措法では、感染を防止するための外出自粛、施設使用制限などの協力要請や指示に関わる裁量は都道府県知事に委ねられており、東京、大阪など確認数が多かった都道府県の措置は全国的にも注目されました。時期的には、3月下旬に新規確認感染者数(以下、新規確認数)が急増し、4月7日に特措法による緊急事態宣言(7都府県)がなされました。5月上旬以降は新規確認数が減少し、5月25日に同宣言が解除され、徐々に経済活動が再開されてきていますが、7月中旬に再び新規確認数が増加しています。
国が緊急事態を決定し知事が実施するという、状況判断と対策の実施が乖離している制度が妥当かどうかは、新型コロナ感染症対策の経験から今後さらに検討されるべき課題の一つです。というのは、国と都道府県の見解がいつも一致するとは限らないからです。実際、緊急事態宣言や、住民や事業者への要請について、国と都道府県の調整に難航した例がしばしば報道されています。別の言い方をすれば、全国的に統一して対応すべき事項と、各地域の状況をみつつ独自に進められるべき事項の整理が残されています。
現場での対応についていえば、新型コロナ感染症への対応能力が業務量という意味で限界を超えた地域が生じました。クラスター対策や相談に対応する保健所職員の疲弊がたびたび報道され、なかには過労死ラインの倍を超える労働時間となった職員もいたとのことです(東京新聞Web版、2020年7月15日)。このような点は労働法上の問題ですが、同時に公衆衛生上の問題でもあります。つまり、再び感染が広がった場合に、持続可能な対策を行うという点で、大きな課題となるということです。改めて緊急事態を含めた感染症対策への備えという観点から、保健所等公衆衛生部門への人材配置や組織のあり方を考えていく必要性が明らかになりました。同時に、情報ネットワークではなく手作業で感染報告を行うなど、効率的ではない事務が残っていることも明らかになりました。適宜状況を見つつ(負荷が大きい場面で仕組みを変えると、さらに負荷があがってしまうかもしれません)より効率的な仕組みを実装していくことが求められています。
なお、医療については、パンデミックへの対応により、予防を含めた医療提供の公共性が改めて示されました。同時に、医療従事者への差別的対応や医療機関の収支の悪化という大きな問題も生じてきました。紙幅の都合上、本稿では検討できませんが、これらの課題も決して見過ごすことはできません。
民主制の下での新興感染症への対応
民主制の下での新興感染症の対応において戦略形成上重要なのは、感染症についての知識を集約し、社会的に共有する仕組みをつくること、つまり得られた知識を総合し、現状を分析して可能な対策を立案し、社会的な協力を組織しつつ実施していくことです。この点においても、いくつかの課題を指摘しておきたいと思います。
まず、知識の集約を行い、データを収集・分析する力、政府としての公衆衛生情報の総合的分析能力における課題です。今回の対策で重要な役割を果たした専門家会議のメンバーは、多くが大学の研究者であり、単に助言を行うだけでなくデータ分析も担っていました(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議構成員一同「次なる波に備えた専門家助言組織のあり方について」)。筆者は、この専門家会議の「前のめり」的対応により状況分析の迅速性がかなり増したであろうと推測しますが、パンデミックに際して研究者が果たすべき科学的知見の創出という役割を考えると手放しで肯定するわけにもいかないと考えています。むしろ、専門家の助言を受けつつ、情報をまとめていく専門的な力量を政府の内部に形成することが重要と思われます。なお、データのオープン化は、政府外の分析力を活用し、政策の妥当性の検証を受けるためにも重要であることを付記しておきます。
住民に対してなされる情報提供のあり方も課題として残りました。政府の報道発表は多くなされていましたが、「3密」を除いたメッセージについては、一般の住民にとって分かりやすいとはいい難いものでした。現時点では新型コロナ感染症についての知識はかなり普及しましたが、重要情報を速やかに効果的に住民に届けるノウハウ・仕組みをさらに踏み込んで考えるという課題が浮上しました。
あわせて考えるべき事柄は、住民目線での政策の点検とそれに合わせた対策です。この感染症は、通常の風邪と区分がつきにくく、迅速検査がないので、一般の医療機関では対応しにくい疾患です。こうして、帰国者・接触者を対象とした対策でも、一般の医療機関での診療にも該当しない、不安の中に残される人々が生じました。これは、パンデミックの際には、それに伴い生じる健康上の不安を受け止めて対応する仕組みの必要性を示したともいえます。
民主制との関係では、公衆衛生上の危機に際した措置について、さらに検討することも課題です。現在流行中の新型コロナ感染症では、全面的な外出制限ではなく、一定のルールのもとでの行動抑制が妥当と思われますが、状況によってはより強力な制限が妥当となるかもしれません。その際に慌てて対応を決めるのではなく、人権の過度の制限を予防する措置を含めた精緻な制度設計をあらかじめ考えることが、備えとして重要に思われます。
おわりに
本稿では、備えをさらに高めるという趣旨で保健・医療行政上の弱点を論じましたが、その強みについては検討を行っていません。しかし、保健・医療という専門性の高い領域において、公衆衛生上の緊急事態において行政がリードしていくためには、強みを生かしつつ弱点を克服することが重要だと考えますので、それについては別の機会に検討してみたいと考えています(直近の論考では、高鳥毛敏雄「新型コロナウイルス感染症と日本の公衆衛生の到達点」『経済』2020年8月号、が参考になります)。
今後、長期化する対策の中で、健康格差の拡大を防ぐために、社会的弱者の健康を注視していくことが重要となります。というのは、感染症の健康への影響として、ウイルスによる直接的なものだけでなく、家計、人間関係などの生活変化と医療への追加的な負荷による間接的なものを考えておく必要があるからです。この取り組みは、保健所だけでなく、各地の自治体の地域保健・福祉部門がすすめるべきものとなりますが、その際、生活上の余裕のなさや変化が健康上の問題につながる可能性を想定し、実態の把握と対策を考えることが重要となります。
- *保健所政令市:地域保健法第5条第1項の規定により、保健所を設置できる政令指定都市、中核市、および政令で定める市をいう。保健所設置市ともいう。