安倍・菅政権の下で行われてきた、恣意的で強権的な官僚人事の問題点を考察し、日本国憲法に基づく政治部門と公務員の関係の正しいあり方について考えてみます。
昨年起こった2つの「事件」
昨年、公務員の人事をめぐって2つの出来事が発生し、時の政権のあり方が大きく問われる政治問題へと発展しました。この2つの出来事は、以下に述べる意味において、文字通り「事件」と呼ぶにふさわしい出来事でした。
そのひとつは、2月7日に定年退職の予定であった黒川弘務東京高検検事長(以下、特に断らない限り肩書は当時)の勤務を半年間延長することを閣議決定したという事件です。検察官には国家公務員法の勤務延長の規定は適用されないというこれまでの政府解釈を、国会にも何ら説明することなく突如変更して強引に勤務延長を決めたということです。そして、その理由が、7月に退任が予定されていた稲田伸夫検事総長の後任に「政権の守護神」といわれる黒川氏を据えることによって、安倍首相自身の「桜を見る会」私物化疑惑や河井克行・案里夫妻の公職選挙法違反疑惑への追及を弱めることにあったのではないかとの疑惑が強まり、国民の大きな怒りを呼ぶところとなりました。結局、黒川氏は賭けマージャンが発覚して辞職せざるをえなくなり、安倍政権が提出した検察官の勤務延長を可能とする法案も、世論の反対の声の高まりのなかで断念に追い込まれました。
もうひとつは、菅内閣が、政権発足間もない10月1日、日本学術会議が推薦した次期会員候補105名のうち6名の任命を、何らの理由も示すことなく拒否したという事件です。これまで推薦された会員候補の任命が拒否された例はなく、また、6名はいずれも安倍政権の下で強行された特定秘密保護法、安保関連法、共謀罪法などに反対したことがあるため、政権に批判的な候補者を意図的に排除したのではないかとの疑いが強まり、研究者のみならず、文化人、宗教者、労働組合、市民団体の間に批判の声が大きく広がることになりました。
検察官は、準司法官ともいわれ独立性が強く求められる公務員であり、学術会議も、法律によって政府からの強い独立性が保障された機関であり、内閣総理大臣による会員の任命は形式的なものに過ぎないとされてきました。この意味で、一般の公務員よりも身分の独立性が法的に保障された公務員の人事にまで政権が強引に介入したこの2つの事件は、安倍・菅両内閣の強権性をあらわにしたものとして世間の耳目を驚かせました。同時に、これは、第2次安倍政権発足以来着々と進められてきた、官邸による官僚支配の延長線上に引き起こされた事件であることも見ておく必要があります。
官邸による公務員人事の支配
20世紀の末以降「政治主導」の名の下に進められてきた公務員制度改革の流れは、2014年の国家公務員法改正により、内閣人事局の設置へと行き着くことになりました。これによって、それまで各省ごとに行うことを基本にしてきた省庁幹部人事は、内閣による一元的な管理の下に置かれることとなり、内閣総理大臣の委任を受けた内閣官房長官による適格性審査に基づいて、任命権者(各省大臣)は、内閣総理大臣・内閣官房長官との協議(任免協議)を経たうえで候補者の任免を行うことに改められました。このことは、各省の幹部人事が、事実上、官邸(総理大臣・官房長官・内閣人事局長)によって掌握されることになったことを意味します。
こうした安倍首相と菅官房長官による人事権の掌握は、文字通り「安倍一強支配」の最有力の手段となりました。そして、600名余りにのぼる各省幹部に対する人事権の官邸による掌握は、課長級以下の職員の人事、さらには各種審議会の人選にまで影響を及ぼすことになり、官僚の世界に「忖度」と迎合の姿勢をはびこらせることになりました。
こうした状況の下で、日本国憲法の理念に基づいて創設された戦後の公務員制度は、いま大きな危機を迎えつつあるといっても過言ではありません。
恣意的人事支配を正当化する論拠
このような官邸による公務員人事の支配は、20世紀末以降行われてきた政治と行政の分野での大々的な「改革」の流れのひとつの帰結にほかなりません。
まず、政治の分野では、1990年代初めに始まる「政治改革」の結果導入された小選挙区制が、第一党に対して得票率をはるかに超える過剰な議席をもたらし、長期にわたる自民党を中心とする保守政権を永続させてきました(一時の民主党政権時を除く)。こうした政治改革の流れを受けて行政の分野で行われたのが、1990年代半ばに橋本龍太郎内閣の下で開始された「橋本行革」でした。そこでは、「内閣機能の強化」が改革の最大の柱に据えられ、内閣(官邸)と内閣総理大臣の権限強化、そして、内閣の補佐を任務とする内閣府という前例のない組織の創設をはじめとして、大規模な中央省庁の再編が行われることになりました(2001年中央省庁改革)。
これらの「改革」の論理は、ひとことでいえば、以下のようなものです。それは、選挙で国民の信を得た国会の多数派=与党が内閣を構成し(議院内閣制)、内閣が国民から負託された政策を推進するというのが国民主権の要請であるにもかかわらず、実際には、各省庁が自らの権益(省益)を擁護するために、内閣が国民のために行おうとする政策を妨害している、という理屈に立っています。このような「官僚優位の体制」を打破し、政治部門である内閣が、省庁官僚の抵抗を排し、彼らを統制しながら国民から負託された政策を実現する、という本来の議院内閣制の姿を実現しなければならない、という論理です。
1990年代以降進められてきた公務員制度改革も、まさにこうした論理に基づくものにほかなりません。すなわち、それまで省庁ごとに行われてきた幹部人事は省益擁護と縦割行政の温床であるとして、これを排除するためには、国民の負託を受けた内閣総理大臣が、広く国民の立場に立って省庁の枠を超えた観点から幹部の適格性を審査する必要があり、内閣人事局の設置はまさにそのためにほかならない、というわけです。
しかし、一見もっともらしく見えるこうした論理に対して、多くの国民は、この論理の下で政権が実際に進めてきた政治や行政の実態に照らしてみて、大きな違和感を抱くのではないでしょうか。また、理論的にいっても、この論理は、日本国憲法が定める公務員の役割という観点から見て根本的な問題をはらんでいます。
公務員に関する憲法の規定
憲法は公務員に関する多くの規定を置いていますが、ここでは、公務員人事のあり方を考えるうえで重要な意味をもつ3つの規定をあげておきます。
①「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」(15条1項)
②「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」(15条2項)
③「天皇……その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」(99条)
最初の①は、官吏の任免が天皇固有の権限であるという明治憲法10条の「任官大権」の思想を否定して、公務員の終局的任免権が国民にあると定めることによって、公務員(地方公務員を含む)の地位が国民の意思に基づくものであること、すなわち、公務員の地位と国民主権との一体性、不可分性を明らかにした規定です。
②は、よく知られている条文ですが、大事なことは、ここでいう「全体」に相当する英文がthe whole communityだということです。つまり、ここにいう「全体」とは、捉えどころのない漠とした全体といったものではなく、社会を構成するすべての人々(社会の全成員)という、より具体性を伴った概念であり、このことは、その後に「一部の奉仕者ではない」の語が続いていることからも理解されます。
③は、文字通り、すべての公務員が憲法尊重・擁護義務を負うことを定めたものです。
これらは、いずれも公務員にとっても国民にとっても重要な規定ですが、公務員の役割を考えるうえで特に重要な意味をもっているのが、②の「全体の奉仕者」規定にほかなりません。
「全体の奉仕者」としての公務員の基本的役割
公務員制度の長い歴史のなかで、かつて、選挙で選ばれた政治部門(政府)に忠実に従うことこそ公務員の役割だ、と考えられた時代がありました。アメリカで見られた猟官制の時代がその典型ですが、そこでは、公務員の職務(公務)が誰でも(つまり頻繁に交代する公務員によっても)担うことのできる単純な仕事であるということが前提とされていました。猟官制の下では、公務員は、政治部門と同じ党派に属し、政治部門と同じ立場に立って、政治部門の忠実な手足として職務に当たることが任務とされていました。
しかし、その後の資本主義の発展に伴う国家機能の拡大に伴い公務員の職務が複雑化・多様化してくると、公務は、誰でも簡単にできるというものではなくなり、専門的な知識と経験を有し、永続的な身分を保障された公務員でなければ担うことができないようなものに変化していきます。ここでは、公務員は、単なる政治部門の手足ではなく、政治的立場を離れて、公務の専門家として何が国民にとってふさわしい公務のあり方かを常に考えながら、公正中立の観点に立って公務を遂行することが求められることになります。ここに、政治部門とは異なる公務員の独自の役割が確立されることになります。
政治部門と公務員の関係の正しいあり方
もちろん、議院内閣制の下において、公務員は最終的には政治部門に従う義務を負っています。しかし、政治部門と公務員の判断が常に一致するとは限らず、両者が対立することはしばしば見られることです。その場合、公務員は、公務員としての独自の役割を踏まえて、国民の立場に立って専門家として政治部門に対して意見を述べ、政治部門の判断にそれを反映させるように努力することが求められます。これは、公務員の権利であると同時に、「全体の奉仕者」としての公務員の義務でもあると考えられます。
制定当初の国家公務員法には、「上司の職務上の命令に対しては、意見を述べることができる」との規定がありました。この規定はその後削除されましたが、明文規定の有無にかかわらず、上司(最終的には政治部門)の指示や命令に異議があるときに、それに対して意見を述べることは、公務員としての当然の権利であり義務でもあります。そして、単なる意見の違いを超えて、政治部門の指示や命令が違憲・違法と考えるときには、単に意見を述べるだけでなく、それに異を唱え、その是正を求める権利と義務をもっていると考えるべきです。刑事訴訟法239条2項が公務員に対して「その職務を行うことにより犯罪があると思料するときは、告発をしなければならない」として告発義務を課しているのも、同様の考えに基づくものと思われます。
これに対して、政治部門の側では、公務員の独自の役割を踏まえて、公務員の意見に謙虚に耳を傾け、できるだけそれを尊重して判断することが求められます。これは、単なる道義上の要請にとどまらず、右にあげた公務員の権利(上司や政治部門に対して意見を述べる権利)に対応する政治部門の義務と考えるべきです。もちろん両者の考えが最後まで一致しないことはありえますが、その場合は、当然、政治部門が最終判断を行い、その結果についての政治責任は政治部門が負うことになり、仮にその判断が誤りであった場合でも、意見を述べた公務員は、個人としてその責任を問われることはない、ということになります。
日本国憲法の下での政治部門と公務員のあるべき関係は、およそ以上のように考えられます。この間、安倍政権の下で起こった一連の出来事─冒頭であげた2つの事件はもとより、森友学園、加計学園、桜を見る会の3大疑惑、公文書の隠ぺい・破棄・改ざんなど─が公務員にもたらした事態は、まさにこれとは正反対の事態ということになります。森友問題に関わる公文書の改ざんという違法行為を強要された近畿財務局の職員が、公務員としての良心にさいなまれて自ら命を絶つという、あってはならない事件が発生した事実は、安倍政権の下での政治部門と公務員の関係が、いかに本来のあるべき姿からかけ離れた異常なものであったかを物語っています。
地方公務員をめぐる状況
以上に述べてきたことは、主に国の場合を念頭においた議論ですが、その多くは自治体職員についても妥当するものです。もちろん、議院内閣制をとる国と直接選挙の首長制をとる地方自治体という違いはありますが、先にあげた憲法の規定は地方公務員にもそのまま適用され、政治部門たる首長と職員の関係についても、基本的に国と同様のことがいえます。
あえて違いをいうならば、自治体職員の方が住民により近い関係に置かれていることから、住民全体の奉仕者としての公務のあり方をより身近に具体的に考えうる立場にあるといえるでしょう。
他方で、政治部門と公務員の関係でいうと、政治部門に当たるのは一人の首長なので、両者の関係は、国の場合よりも直接的になりやすい面があります。この場合、首長が政治部門と公務員の正しい関係に理解があればいいのですが、そうでない場合には、首長によって職員が不当な支配の下に置かれる事態も生じやすいことになります(大阪維新政治の下でのこうした状況については、別稿を参照下さい)。
いずれにせよ、国であれ自治体であれ、憲法に基づく政治部門と公務員の本来の正しい関係を築いていくためにも、「全体の奉仕者」としての公務員のあり方を日常の職務を通して追求する努力を、個人的にも、あるいは職場や労働組合を通して集団的にも積み重ねていくことがきわめて重要になることを、最後に確認しておきたいと思います。