いま多くの人にとって、最も身近なメディアはインターネットに違いありません。その窓口となるのは掌のなかのスマートフォンです。そこからあふれ出る知識や情報のなかで私たちは日々の生活を過ごし、そして政治的選択を行っているわけです。もちろん、いまだ日本においては地上波放送(テレビ)や一般日刊紙(新聞)が一定の社会的影響力を保持していることも見過ごせません。
しかし若年層に留まらず、各種調査によればほぼすべての世代で、情報接触の際に利用するサービスの上位は、SNSと呼ばれるツイッターやフェイスブック、インスタグラムやユーチューブが一般的であり、今日のコロナ禍のなかで行政のライン利用も一段と加速しています。もはや、これらの手軽で双方向性や匿名性が保障され、しかも無料の情報サービスは、私たちの生活の一部となり、行動選択や意思決定に欠かせないものになっているということになります。
本稿では、メディアが地域においてどのような役割を担っているのか、逆にいえば、メディアにおけるローカリティがどのように担保されているのか、それが地域そして日本社会の民主主義にどのような意味を持っているのかを一緒に考えることにしたいと思います。これからの地方自治を考えるうえでも、あるいは私たち一人ひとりのメディアとの付き合い方を考えるうえでも大切なことだと思うからです。
コモン(共通の場)
ある特定の地域に住む人々(とりあえずここでは「住民」と呼ぶことにします)にとって、共通の場が存在することは大切です。町内の自治会がしかり、日本独自のコミュニティ・スペースである公民館もその1つです。ちなみにこの公民館はおおよそ人口比に応じて均等に設置され、かつては全国で2万館が存在していました(類似施設を含む)。しかし2000年代に入り急速に減少し始め、現在は1万3000館程度で推移しています。
実はこの「2万」という数字は大きな意味を持っており、全国をおおよそ網羅する数字とされてきました。たとえば特定郵便局しかり、コンビニエンスストアしかりです。そしてメディア関係でいえば、書店の数もかつては2万だったし、新聞販売店の数も2万だったのです。いわば、どの地域においてもおおよそ存在する情報発信拠点ということを意味します。
もちろんこうした地域住民の「共通の場」は、教会や寺院といった宗教施設であったり、ヨーロッパの街並みに残っているピアッツァやプラッツ(噴水や彫像などを囲んだような小さな広場)ということもあるでしょう。日本では、かつては銭湯が同様な役割を果たしていたともいわれています。まさに近所同士の裸の付き合いということです。
こうした物理的に近隣住民が顔をあわせる場が存在することによって、どんな人が住んでいるかを知り、それが住民同士のつながりを生み、地域の安定や改善にも結びつくとされてきたわけです。時にはそこで、共通の話題について話が交わされ、時には課題解決に向かうこともあるでしょう。まさにもっとも基本的な住民自治ともいえます。
こうした物理的なつながりを担保する場を補足するものとして、最初の例でいえば自治会の回覧板や、公民館の発行する便りや会報があります。それらを通じ私たちは、来週は除草剤の散布があるから洗濯物を干すのをやめようといった身近な生活情報から、近くの高齢者施設で行う傾聴ボランティアを募集しているのか、そもそも傾聴って何だろう、といった地域活動や新しい関心のきっかけをつかむわけです。
ただしこれらの情報発信力は限られていて、もう少し広範囲の人に知ってもらいたいことや、その地域のみんなに伝えたいことを実現するには、別のメディアが求められることになります。まさに空間的な「共通の場」の設定であり、時に言論公共空間と呼ばれてきたものです。そして一般的に、こうした空間を提供するのは常設的なメディア、これまでは言論報道機関の役割とされてきました。
より具体的には、本や雑誌、新聞やテレビ・ラジオといった「マスメディア」の存在です。日本はさまざまな歴史的経緯を経て(ここではその内実は一切省きます)、幸いにもこうしたマスメディアが実態として存在してきたとても珍しい国です(幸いにも、の評価も本当はさまざまかもしれませんが、この点もすべて割愛します。拙著をご参照ください)。
先にあげたように全国2万店舗の本屋があることで、全国どこに住んでいてもおおよそ自分の街で、さまざまな本に出合うことができました。本との出合いは図書館よりも身近な存在であったともいえます(公共図書館はいまだ日本には3000強しかありません)。しかもその店頭では、新刊の雑誌も読めるし、文庫・新書からちょっとした専門書まで実際に手に取ることができるわけです。
同様にこれまた全国どこに住んでいてもおおよそ、毎朝、新聞が自宅に届けられる制度(戸別配達・宅配)が整備されており、テレビやラジオの受像機さえ買えば、そこから番組が流れてきます。日本では当たり前の風景ですが、こうして全国あまねくテレビや新聞が行き渡っている国は、ちょっと人口が多い国のなかでは世界で唯一の国であることを知っていただければと思います。
まさに、マスメディアが存在することによって、その地域の人におおよそくまなく情報が届き、その読者・視聴者である住民の間で「共通の話題」として、さまざまな地域・地方の課題をそれぞれが知り・考え、そして議論する土俵が形成されてきたということになります。こうした住民間、あるいは地域・コミュニティにおける共通の場(コモン)の存在は、地方自治とメディアを考えるうえでの出発です。
ローカリティ(地域性)
そのうえでの課題は、こうしたメディアが地域に即した話題提供をしているかということです。見出しにあげた地域性がきちんと発揮されていないと、あえていえば世界の情勢や日本(専ら東京)の政治状況には詳しくても、足元の自分が住んでいる地域については関心もなければ、何の知識・情報もないということになってしまいます。それでは、形ばかりの地方自治があったとしても、早晩衰退していくことにならざるを得ません。
その意味で、先にあげた新聞やテレビの地域性が問われるわけですが、制度上、日本のメディアは三層構造でできあがっており、地域特性を大事にしてきたとされています。すなわち、ナショナル(全国)・ローカル(地方)・コミュニティ(地域)という分け方で、新聞ならば全国紙・地方紙・地域紙というおおよその区分があります。みなさんの住んでおられる地域でも、朝日・毎日・読売・産経・日経という全国紙と、県紙と呼ばれる県を代表する新聞、そしてさらに販売エリアが限定されている郷土紙とかコミュニティ紙と呼ばれる新聞があるのではないでしょうか。
テレビでいえば、NHKは全国放送で、その他の民放テレビ局は地域(県域)放送です。これは電波法(放送法)という法律によって、国家免許で規定されていますが、この結果、民放テレビ(ラジオも同じです)は、その地方に根付いた地域の放送をすることになります。なお、東阪名と呼ばれる、東京圏・大阪圏・名古屋圏は周辺の県を含めた広域免許が認められているほか、いくつかの地域では県境をまたいだ放送がなされています。
さらにいえば、政府の放送政策によって戦後、テレビはその地方の市場規模によって放送局の数を決めており、1つの地域には2つから6つの民放局が存在します。そして前に触れた複数県での放送が認められることで、おおよそどの県でも5つ程度の民放チャンネルが視聴できる体制がとられています。これに、全国放送のNHKの2チャンネル(総合と教育)をあわせ、7つ前後のチャンネルからほぼ24時間、テレビ番組が流れています。
ここでのポイントは、複数の放送局が適度の競争関係を保つなかで、地域の出来事を取材し報道しているということです。また、その地方の歴史や文化的な背景を踏まえ、地域に根差した放送を実現する環境ができているということになります。いまここで「放送されている」と書かなかったのには理由があります。まさに、地域性が発揮された放送が本当になされているのだろうか、という指摘があるからです。
1つには全国の民放局は東京や大阪の放送局を中心にネットワーク化され(東京の放送局をキー局と呼ぶのはそのためです)、ほとんどの時間帯は地元の放送局の制作ではなく、東京や大阪で作られた番組が流れているという実態があります。もちろんこれには必然的な理由と、実態的な要因があります。
前者は、たとえば北海道の放送局が沖縄の事件を伝えようと思った場合、そのニュースは沖縄の放送局から映像をもらわないと成立しません。したがって、取材・報道のネットワークがどうしても必要で、地域ごとの放送局がギブ・アンド・テイクの関係で、ニュース素材のやりくりをしています。そして後者は、事業規模が小さい地方局が、24時間を埋めるだけの番組を自分たちで作るには、予算的に無理があり、いわば事業上の提携をする必要があるということになります。
そうすると当然、東京(あるいは大阪)の放送局の都合や、全国規模の広告スポンサーの意向を反映せざるを得ない状況も生まれますし、そもそも、物理的な放送時間にしても地方枠はどんどん小さくなってしまうことになりかねません。これは、地方局が地方局であることのアイデンティティである地域性を失う危険性を孕むものです。
一方で、先ほど述べた構造の最も身近な層に位置する地域においては、コミュニティ放送と呼ばれるFMラジオ局が存在します。普段はあまり気にされない放送ですが、阪神淡路大震災や東日本大震災といった災害時においては大きな存在意義を示してきました。臨時放送局として数多くが開設され、人々を勇気づけ復興を支えてきたからです。最も地域性(ローカリティ)が発揮されたメディアといえるでしょう。
デモクラシー(民主主義)
地域性の喪失の話に戻るなら、ジャーナリズムの問題としても、地元地域の取材力が弱まることになれば、その地域の文化の継承にとっての影響も出ますし、当該地方の権力監視といった面でも不安が出てきます。もちろんこれは、テレビに限った話ではありません。新聞においても、少し違った意味での問題指摘があります。それは、当該地方に力を持った新聞が1つしかないことによる弊害です。メディアが独占状態にあると、どうしても地方の行政組織や地元経済界との距離が近くなって、その結果チェック機能が弱まるのではないかという心配です。
日本の場合、先にお話ししたように全国紙が存在していることで、地方紙vs全国紙の競争が生まれ、その結果として地方自治体等への監視機能が維持されてきたとされます。実際、アメリカの研究所の調査では、当該地方に新聞がなくなると(そういうところが世界中に増えています)、その地方政府が腐敗する傾向があるとされます。人も組織も周囲の目がないと暴走するというのは、古今東西共通しているのではないでしょうか。
こうした課題を抱えつつも、これまで日本の多くの地方では、まがりなりにも自由で独立したメディアが存在し、しかも継続的安定的に紙面や番組を作ってきたことで、その地域の民主主義社会を支えてきたといえましょう。また独自性をもった取材・制作力で、一定程度の多様性や多元性も維持してきたといえるのではないでしょうか。繰り返すならば、地方ごとの多様で豊かな知識や情報が、自由闊達に流通している環境があることで、人々は成長し、社会は最善の選択をしていくことができるというわけです。
ただしインターネットの登場は状況を大きく変えつつもあります。いうまでもなく、ネットの世界に県も国もありません。その情報は世界中を瞬く間に駆け巡るわけです。その結果、メディア媒体の「ローカル」という物理的な概念自体も変わらざるを得ないといえます。従来は、ここまで書いてきたように、放送や販売のエリア(範囲)を基準として、ローカルメディア(県紙・地方局)を規定してきましたが、デジタル・ネットワーク化によって、その読者・視聴者はボーダーレスになっていくからです。
実際、たとえば県域地上波ラジオのインターネット版であるradiko(ラジコ)は、ちょっとだけお金を払うと、全国のラジオ放送を自由に聞くことができます(エリアフリー視聴)。好きなパーソナリティがいるから、出身県の生情報が知りたいなど、さまざまな理由で着実にリスナーの数を増やしているといわれています。ここからわかるのは、その局・番組の独自性があれば、それを求める人がいて、そのマーケットは県を超えて存在するということです。
もちろん、ビジネス上でうまく成功するかどうかは不透明な部分があるにせよ、ローカルな知識や情報が「地産地消」だった時代から、ローカリティが地域を超えて多くの人を幸せにし、その地域の良さを理解する人が増えるという可能性があるということを示しています。技術の進歩によって情報の流通の仕方は変わっていくわけですが、世の中の情報がすべてグローバルな、あるいはナショナルなものだけになっては、最も身近な社会(コミュニティ)の基盤は揺らぐことでしょう。しかしボーダーレスになることで、改めて地域性が再確認され、それによって強化されるということもあることを現わしています。
あるいは、インターネットがローカルのなかの各コミュニティをつなぐ、情報の空白を埋める役割を果たすことが期待されます。ナショナルメディアからみるとローカルメディアたる地方局や県紙は十分に地域性を有しているわけですが、一方で大きすぎるという側面もあります。たとえば、県選出の国会議員は知っていても市議会議員は知らない、県知事の顔は分かっても、町長は分からないといったことはよく起きる現象です。その要因の一つは、ローカルメディアが十分に地域の出来事をカバーしていなかったり、していたとしてもお祭りなどの町の行事などに偏ってしまっていて、問題解決に結びつくような社会選択や政治選択のための情報については、決定的に不足しているということがあるからです。
都市化と過疎化が同時進行している日本において、住民同士そして住民と行政をつなぐことは、いかにローカリティを維持するかの肝であり、地方自治を進めていくうえで大切な点です。地域の中で共通の場(コモン)を設定し、共通の話題を議論できるメディアが存在することで、地域性(ローカリティ)を保持しながら自分たちの歴史や文化を守り発展させていくことができるでしょう。それはまぎれもなく、地域社会を構成する一員としての役割を果たすことと重なり、住民自治=民主主義(デモクラシー)の実践となることと思います。その意味からも、メディアの役割はますます重く大きくなるのです。