水島で「みんなの公害資料館」をつくる
岡山県倉敷市にある水島地域は、石油化学コンビナートや鉄鋼業による大気汚染によって悩まされた地域です。公害認定患者が原告となった倉敷公害訴訟が1983年に提訴され、1994年に原告勝訴、1996年に和解し、2000年から公害地域再生に取り組んでいます。筆者は2021年から、その水島で公害資料館をオープンさせるために奔走しています。
水島の公害資料館の根幹は公害訴訟の資料群です。環境再生保全機構の「記録で見る大気汚染と裁判」のウェブサイトに、倉敷公害訴訟のコンテンツを掲載することになり、2011年度から2013年度にかけて倉敷公害訴訟資料を公益財団法人水島地域環境再生財団(みずしま財団)が整理することになりました。その後も継続して「倉敷市公害患者と家族の会」の資料など公害関係資料が整理され、2021年には公開できる段階になってきました。ただ、残念ながら資料を整理して公開することで公害資料館が成立するかといえば、そのような簡単な問題ではないのです。
公害資料館を地域でオープンさせ、持続可能な存在となるためには、地域の人たちに「良いもの」「必要なもの」と支持を受けることが必要です。地域の人たちに受け入れられなければ、存続は難しいからです。まさに「みんなの資料館」として、受け入れてもらえるような存在になること、それが水島での公害資料館が目指しているコンセプトです。
ところが、地域の方々に公害資料館を説明する際に必ず言われることがあります。それは「公害だけの資料館にしないでほしい」という意見です。「公害」を取り上げることを否定されているように感じてしまいますが、最近そうではないことに気がつきました。これは「被害者側の主張だけにしないでほしい」という願いであり、他の立場からの視点も取り入れてほしいという願いなのです。
「公害」を見る複数の視点
公害は環境や人権、健康といった複合的な問題であるために、切り口が複数あり、それによって意味づけが変わってきます。
環境の視点から見ると、公害問題は環境問題の前史として扱われています。環境問題として大きなトピックスである地球温暖化や生物多様性の議論に焦点が定まり、しばしば公害はすでに終わったトピックスとして扱われることがあります。
また、環境を自然科学的な視点で捉えると、汚染物質の濃度など、数値で測られる問題になってしまいます。環境基準の達成、環境アセスメントの項目など、数値をどのように改善するかが重視されます。また公害の健康被害にしても、認定患者数だけを取り上げてしまうと、認定されていない人たちの健康被害が見えないことになります。数値だけで公害は克服できたと言えない部分もあるのですが、そのような心のモヤモヤは扱われないことになります。
経済開発の視点から見れば「光」と「影」があります。「光」として開発が語られ、地域に富がもたらされたことが語られます。公害は、開発に対して「影」として描かれます。公害は、足尾銅山のように原因となった発生源と、被害が起きた地域が離れていることもあります。光と影という視点だけでは、開発によって受けた利益と、被害によって生じた損失が表裏にはならず、時として被害を受けた人たちを置き去りにする場合があります。
人権の視点から公害を見れば、差別と情報の正確性の問題が取り上げられます。水俣病の発見当初は、伝染病として取り扱われたことから、伝染病ではないという正しい知識を知ることが求められました。ただ、公害に対する差別は、正しい知識を知れば問題が解決するほど簡単な問題ではありません。「ニセ患者」と公害認定に関わる嫌疑がかけられること、公害病認定によって支払われる補償費をめぐって、「公害御殿」などといった誹謗中傷を受けることなど、様々な場面で差別は起こります。これらは、「正しい知識」がないから起こるのではなく、制度への不信感や、権利である補償を非難する人権意識の希薄さなどが底辺に流れています。また、環境権についての認識も深まっているといえない現状の中、より良い環境を求める思いが「贅沢だ」と認識されてしまう問題も横たわっているのです。
公害は環境や人権、開発、健康、法制度など、さまざまな問題の複合体と言えます。だからこそ、一つの切り口から論じると、どれも不足が生じてしまうのです。
多視点性による公害経験の継承
水島の人たちは「水島を知ってほしい」と願っていますし、「水島は良いところだ」と言いたいはずです。コンビナート建設時には水島に人が溢れ、商店街の賑わいは肩がふれあうほどだったといいます。そのような栄光を語る文脈と、「公害」はなかなか重なり合いません。また、倉敷市役所でも、「公害」ということを取り上げることに抵抗感を感じる部局は、多々あります。
こうした状況を打開する方法として、水島では2つの方法を試みています。1つは、みんなで歴史を聞き書きして、ストーリーを作り上げるということです。専門家だけで歴史を紡ぐのではなく、被害者側だけでもなく、経済開発の「光」を見てきた人たちを含む多様な視点を取り入れることを重視しています。つまり、本特集の除本論文で論じられている多視点性です。視点が複数になることで、ある視点に限定されることはありません。また、複数人で作り上げることで「みんなの歴史」となり、参加者が自分の歴史として語り出すという効用があります。
具体的には「みずしま地域カフェ」というイベントを開催してヒアリングを行い、『水島メモリーズ』というA5判16ページの小冊子にまとめて、地域の社会教育施設や信用金庫、観光施設で配布しています。
地域の来歴を探り「困難な過去」に向き合う
もう一つは、地域の来歴を探り、「困難な過去」にもきちんと向き合うことです。
水島は、江戸時代に干拓によって新田開発で造成された土地、1910(明治43)年から1925(大正14)年にかけて、水害のために東高梁川を廃川にしたことで生まれた土地、戦後の埋め立てによってできた工業用地と、3種類の土地でできています。それぞれが物語を持っています。東高梁川は上流部で砂鉄を採取していたために、天井川となって水害を繰り返していました。高梁川の最河口部の水島は、干拓によってできたために、土地が低くて水害に弱いという特質を持っています。
そして、廃川地があったことで、アジア・太平洋戦争中に三菱重工業が名古屋から進出して水島航空機製作所を作ることになりました。国策によって、街が突然できたのです。工場への空襲を想定して、亀島山地下工場の掘削のために朝鮮人が集められました。三菱重工業水島航空機製作所は空襲被害を受けましたが、社宅部分は空襲を逃れたことで、戦後は引き揚げ者や空襲によって家を失った人たちに活用されるようになりました。また三菱重工業の進出が基盤となって、戦後は石油化学コンビナートや製鉄所が進出し、一大工業地域が造成され、公害問題が起きてしまいます。
水島の地域は、水害に弱いこと、朝鮮半島にルーツを持つ人が多くいること、空襲にあったこと、移住してきた人が多いこと、公害患者が多いこと、貧困の問題など、さまざまな「困難な過去」が複合しています。それらの過去は、有機的につながり、水島に関わる人であれば、どこかでつながっています。ある事象だけを取り出したら、つながりは見えないかもしれませんが、それぞれがどこかでつながっていることを具体的な地域の歴史を描くことで見えるよう留意しています。『水島メモリーズ』は正面から公害のことを論じてはいませんが、どこかに公害や他の困難な歴史との接点が見えるようにしています。水島での実験が公害を語る新しい可能性を示すことができればと願っています。