颯爽と現れた海外の女性政治家が、堂々とまた真剣な面持ちで未来を語る姿をテレビでよく見るようになりました。女性リーダー(しかも若い)が困難な局面で社会をまとめていく姿は、見る人に希望と勇気を与えます。そういう光景を見た後で日本のニュース番組を見たときの落胆はとても大きいです。相も変わらず高齢男性の政治家がジェンダー平等にとんちんかんな発言をして、失笑を買っても気づかない姿は滑稽ではすまされないからです。とくにこの3年近くにもなるコロナの流行で、私たちは世界を比較して見る習慣を身につけ、かつ同じコロナ禍に対しても社会によって対処の仕方が違うことや、コロナ禍がその社会の特徴を明るみに出すことを知りました。
そのような視点で見ると、現在の円安は世界の中の日本の位置づけを経済のレベルで表すものに思えます。世界は、ジェンダー平等、気候変動への取り組み、脱炭素のためのEV(電気自動車)化、移民・難民の受け入れを重要課題と見なしているのに、日本がその動きから大きく後れを取ってしまった結果が現在の円安に現れているように思えるからです。政府は、これまでジェンダー平等ランキングをあまり気にかけていなかったようですが、それが経済にも影響を与え、他の分野と掛け算で効いてくるようになれば、無視するわけにはいかないでしょう。とはいえ、ジェンダーの問題は家族のあり方や私たちの物の見方、組織のあり方などの日常生活のすべてに浸み込んでいるので、ジェンダー平等をめざすことは自分たちの物の見方や社会のあり方を変える勇気を伴います。そのときに、日本の伝統や日本らしさを守ろうとする考え方とのせめぎ合いが生じることは、夫婦別姓や同性婚をめぐる政府の議論によく表れています。
「冷たい」社会と「熱い」社会
フランスの文化人類学者のは、人類の社会を「冷たい」社会と「熱い」社会に分け、人類学が研究対象にしてきた「未開社会」は開発(変化)を拒み、そのままであり続けようとする「冷たい」社会なのに対して、先進国は「熱い」社会で変化することを前提としていると述べています。たとえるならば、「熱い」社会は内部に蒸気機関を備えているようなものだけれども、「冷たい」社会はぜんまい仕掛けの機械で動くようなもので、果てしなく初期状態を保持しようとする傾向をもっていると言います(レヴィ=ストロース 1988)。日本は先進国とされていますが、この2つの社会のたとえを用いると、現代の日本は変化を拒む「冷たい」社会で、過去を変えずに踏襲する(ジェンダー不平等で家父長的な制度を残す)ことで、日本らしさを保とうとしているように思えます。
このような初期状態を保とうとする考え方は、SDGs(持続可能な開発目標)のように2030年までに実現すべき目標を定めて未来志向で進むことの対極にある考え方といえます。日本が、国連の定める勧告や目標を自分たちに関係のない他人事のように見なしがちなのは、未来に目標を定めて、それに向かって社会を変えていくというあり方に抵抗を覚えるからのように思えます。なぜなら、社会を変えることは既存の秩序を変えること、つまり既存の権力構造を揺るがすことにつながるからで、とくにジェンダー平等をめざすことは、戸籍や家の継承などの日本の隅々に張り巡らされた権力構造を変えることになるからでしょう。ですが、社会を変えずに現状維持を保とうとすることは、未来志向で動く欧米とのずれを一層広げることにつながると思われます。
伝統文化とジェンダー平等
日本社会の習慣がジェンダー平等と矛盾する例は枚挙にいとまがありませんが、私たちはそれをジェンダー不平等と思わずに、あるいは思っても、広く文化や習慣と見なして日常生活を送っています。たとえば、今でも地方の行事や儀式の場で、男性陣が料理やお酒の前で飲食し、女性陣は台所で料理を作って運び、その場で残りのものを食べることがあるかもしれません。また、普段の生活ではほとんど意識することのない女人禁制があらわになることもあります。2018年に京都府舞鶴市で相撲の表彰を行っていた市長が突然倒れ、救助のために入った女性看護師らに、行司が女性は土俵から降りてくださいとアナウンスしました。土俵は神聖な場所だから女性は上がれない(上がるという言葉にも上下関係が埋め込まれている)という相撲協会の説明に対して、命の危険があるときにまで伝統を持ち出すのかという議論が起こりました。
また日本だけでなく世界のさまざまな地域に目を向ければ、ジェンダー不平等な文化や習慣は山ほどあります。たとえば、女性性器切除(女性の外性器の一部を切り取ったり、縫い合わせたりする)や早婚(児童婚ともいわれる18歳未満の結婚)は現在も世界の各地で行われていますし、イスラム教徒の間に見られる もたまにニュースになります。また古くは や、インドで行われていたサティの習慣(死んだ夫を火葬する際に、寡婦が一緒に焼け死ぬこと)も、一部の女性に課された残酷な習慣でした。他にも文化人類学者は、行く先々でジェンダー平等でないと思われる(現地の人々がそう思っているかどうかは別にして)習慣に出会います。たとえばインドの は、夫に内緒で映画を見に行った妻を殴るのは悪いとは思わないけれど、寝ている犬を蹴っ飛ばすのは良くないと考えているし、息子に娘より多くの財産を相続させるのは悪いとは考えないけれども、並んだ列に割り込みをするのは悪いと考えているそうです( 1990)。
つまり、道徳観は文化によって異なり、ジェンダー平等という概念は必ずしも世界共通の価値にはなっていないと言えます。現実の世界では、女性に対する暴力や女性労働の搾取、自己決定権の無視などのジェンダー不公正が見られます。もっと言えば、ジェンダー平等は欧米の一部の人たちが重視するethno concept(民族独自の概念)だという見方もできるでしょう。私たちが大学で学ぶジェンダー論やフェミニズムは、欧米の人たちの作り上げた理論をもとにしています。それならば、西欧生まれで西欧育ちのジェンダー概念を世界標準の考え方にしようというのは、西欧の考え方を世界全体に広げようとする帝国主義的な発想だという見方もできるかもしれません。ただし、西欧生まれであっても良いものは世界に広めればよいと考えるならば、それを世界共通の概念にしてはいけないことにはならないでしょう。そうはいっても、現実の世界ではジェンダー平等の考え方が世界全体の普遍的な価値とは未だなっていないこと、そしてその考え方は歴史的、地理的に西欧という一部の地域で誕生したものだと考えるならば、そのような見方をなぜ世界共通の価値観と見なすのかという疑問が出てくるでしょう。現実の世界には多様な価値観があり、それらの多様な価値観に優劣をつけて、西欧の価値観を優先させるのかという議論になるからです。
文化の多様性を認める
地球上の人類の文化は多様で、その文化は尊重されなければならないというのが、文化人類学の基本的な考え方です。文化に優劣はなく、自文化の基準で他の文化を判断してはならない。ある習慣が、自文化の基準から見てどれほど奇妙で遅れた習慣に見えても、その文化全体の中で果たす役割があり、私たちはその文化圏の人たちの物の見方を尊重しなければならない。これは文化相対主義と呼ばれ、異文化に対して寛容であれという点で、とても重要な考え方だと思います。
ですが、先ほど挙げた女性性器切除や早婚をどう見るべきかという難問に直面します。なぜなら、女性の性器を傷つけることや、わずか12-13歳の女の子が顔も知らない30を超えた男性と結婚させられることを文化として認めるのか、あるいはジェンダー平等に反するとして廃止を主張すべきなのかが問われるからです。文化という名のもとに、不平等や貧困、人権無視を認めて覆い隠すことにならないかというわけです。
そういうときに文化人類学は、二者択一の議論ではない道を選ぶのですが、それはある意味歯切れが悪く、明確な答えを避けているように聞こえます。たとえば早婚を例にとると、女児は貧しい家にとって経済的負担なので、娘が若くて価値があるうちに嫁がせる、また美人であればなおさら早く嫁がせないと男性から言い寄られて不名誉な事態になる。さらに、女性が若いほど持参金が少なくて済むので早く嫁がせるとも言われます。そのような理由に対してユニセフは、児童婚は女性から10代という成長の過程と教育の機会を奪い、母や妻の役割に限定し、出産においてもリスクを高めるとして、早婚の廃絶を唱えています。バングラデシュは早婚の割合が高い国の一つですが、そこで実際に早婚をした女性たちに話を聞くと、実は夫とは付き合っていて早く結婚したかったという潜在的恋愛結婚のケースや、9-10歳で結婚したけれど、婚家でなくほとんど実家で過ごしていたという話や、結婚後も女性はしょっちゅう実家に帰り、実家の親から多くの援助を得ていることを知ると、早婚のイメージがずいぶん変わります。その意味で、早婚をジェンダー不平等という視点から見れば確かに男女が非対称ではあるけれども、バングラデシュには西欧とは異なる家族観や婚姻観があることも事実です。ただし、そのような家族や婚姻の習慣をいつまでも続く不変のものと見る必要はなく、社会は常に流動的です。たとえばバングラデシュの村の若い夫婦の間では、妻の教育年数の方が夫より長くなっています。それは、政府が女子教育を優遇する政策をとったからですし、また教育が資産としての価値を持つようになったために、親の中には娘に教育を受けさせて結婚市場での価値を高めようとする人もいるからです。そんなふうに文化は変化していきますし、バングラデシュでも夫婦の教育年数の違いが、今後ジェンダー関係を変化させていくのではないかと思います。
ジェンダー概念をどう用いるか
地球上にはさまざまな道徳観、文化があり、家父長制がその地域のローカル・ルールになっているところがあるとしても、ジェンダーの概念が有効ではないとは思いません。まず人権を重視する上で、ジェンダーの概念を用いて不平等に置かれている人の力を強めることができます。たとえば、 のことばを用いることで、国家や医療のような権力に対して女性の人権や自己決定権を中心においた議論をすることができます。言葉や概念は弱者にとって大きなエンパワーメントの手段になります。
写真は、ワールドカップ(W杯)のカタール大会で、イラン選手のサポーターがイラン国旗に「女性 命 自由」と書いて抗議しているところです。イランではW杯の約2カ月前に、22歳の女性がヒジャブ(女性の髪を覆う布)のかぶり方が悪いとして逮捕され、その後急死しました。その事件の後、イランだけでなく世界のあちこちで女性の自由や人権に連帯するデモが起こっています。イラン選手のサポーターは、W杯という場で英語で「女性 命 自由」と書くことで、ジェンダー平等という共通の価値観に向けて訴えかけたと言えます。
また、多様な文化の存在を認めつつも、世界は共通のルールを欲しています。グローバル化がそれを促進し、共通のルールがなければ議論の基礎を築けず、問題解決に至らない場面がたくさんあります。たとえば、国境を越えて移動する人々─海外で働く労働者、、 国際結婚、観光客や留学生─の存在は国を越えた共通のルール作りを必要としています。その際に、すでに欧米ではジェンダー平等が重要な概念になり、それをもとに社会が構築されている以上、それを組み込まない議論をすることはできないでしょう。その際に必要なのは、より普遍性の高い概念を用いて多様で異質なものを含み込むことであり、普遍性のレベルを上げていくことでローカル・ルールを乗り越え、より多くの人々や地域をカバーすることでしょう。また、なぜジェンダー平等をめざすのかという疑問に対してイギリス政府は、グローバル化の時代(言い換えれば世界が一つの土俵で競争する時代)に、人口の半分を眠らせておくことはできないと答えています。女性の人権ではなく、グローバル化による競争に勝ち抜くことを理由とした点に違和感はありますが、まさに合理的な答えと言えるでしょう。
グローバル化の問題点は多々あるとしても、私たちはローカルな文脈を考慮に入れつつ、普遍性の高い概念を用いてより多くの人々を包み込み、未来志向で社会を変えていくことが今求められているのだと思います。
【参考文献】
1 レヴィ=ストロース『現代世界と人類学─第三のユマニスムを求めて』サイマル出版会、1988年。
2 Shweder, R., Ethical Relativism: Is There a Defensible Version?" Ethos 18 (2): 205-218, 1990