憲法15条2項は、公務員を「全体の奉仕者」と定めています。本稿では、その意義を、革新自治体の時代から現在までの歴史的展開の中に位置づけ、その将来のあり方を展望します。
日本国憲法と公務員
(1)憲法15条─1項と2項
「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」(憲法15条2項)。
国であれ自治体であれ、現に公務員として働いている人でこの規定を全く知らない人はまずいないと思います。日本国憲法は公務員についてさまざまな規定を置いていますが、公務員の存在意義を定めたこの規定は、公務員に関する最も基本的で最も重要な規定といってよいでしょう。
これに加えて、憲法は、この規定のひとつ前に、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」(15条1項)という、もうひとつの規定を置いています。同じ15条に置かれた1項のこの規定は、2項の「全体の奉仕者」規定と比べると、あまり知られていないかもしれません。しかし、この規定も、2項と合わせて重要な意味をもっています。
日本国憲法になぜこの二つの規定が並んで置かれているのか、また、その意味はどこにあるのか。このことは、日本国憲法が、戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)の徹底的な否定の上に立って定められたことを考えると、容易に理解することができます。
(2)「天皇の官吏」から「国民の公務員」へ
明治憲法は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(3条)、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(ス)」(4条)として、天皇こそが国の主権者であることを定め、国民は、天皇の統治権に服従する単なる「臣民」(君主の支配に服する人)としての地位しか与えられていませんでした。そして、「天皇ハ…文武官ヲ任免ス」(10条)として、文官と武官を含む官吏(今でいう国家公務員の中核部分)を任命し罷免するのは、主権者たる天皇の固有の権限(これを任免大権といいます)とされ、官吏は、天皇とその政府に対して「忠順勤勉」(官吏服務紀律1条)を尽くすべきものとされていました。
明治憲法の下でのこうした官吏の地位は、日本国憲法の制定に伴う天皇主権から国民主権への転換によって、180度の変化をとげることになります。すなわち、国民主権の下では、すべての公務員は、一部の支配者(=天皇)への奉仕者ではなく、文字通り国民全体に奉仕する存在になるとともに、公務員を選び罷免することも、天皇の大権事項(任免大権)ではなく、国民固有の権利ということになります。もちろん、公務員の選定罷免権が国民にあるというのは、個々の公務員を国民が直接任免するという意味ではなく、公務員という地位が究極的には国民の総意に基づいているということを、天皇の任免大権から国民固有の権利としての公務員の選定罷免権へ、という形で表現したということにほかなりません。
この意味で、①「天皇の任免大権」から「国民固有の権利としての公務員の選定罷免権」へ、②「天皇の官吏」から「国民全体の奉仕者」へ、という15条に置かれたこの二つの規定は、いずれも国民主権に基づく国民と公務員の強い結びつきを表現するものとして、一体不可分の関係にあるということができます。
(3) 国家公務員と地方公務員
以上は官吏に即しての話ですが、憲法15条の「公務員」には地方公務員も当然含まれますので、右に述べたことは、地方公務員にもそのまま妥当することになります。
また、戦前の官吏は、国に勤務する者のうち「官吏」という特定の身分をもつ者をいい、地方団体でこれに相当する者は「公吏」(または吏員)と呼ばれ、いずれも公法上の身分をもつものとされ、これとは別に、国・地方とも、雇員・傭人などと呼ばれる私法上の身分をもつ勤務者が置かれていました。こうした身分上の区別は日本国憲法の下ではなくなり、国に勤務する者はすべて国家公務員に、自治体に勤務する者はすべて地方公務員に統一されることになり、憲法15条にいう「公務員」には、国と地方のすべての公務員が含まれることになりました。
(4)公務員の憲法上の役割
日本国憲法は、①国民主権、②基本的人権の保障、③平和主義の三つの原理から成り立っています(これに加えて地方自治の保障があげられることもあります)。これをふまえるならば、国と自治体の存在理由は、国民主権に基づいて国民(住民)の基本的人権を保障することにあるということになり、したがってまた、国・自治体の仕事を担う公務員の役割も、国民の基本的人権を保障することにある、ということになります。公務員が「全体の奉仕者」であるということは、まさにこの意味において理解されなければならないことになります。
公務員が本来の役割を発揮した時代
戦後史において、右に述べた公務員の本来の役割が発揮された輝ける時代がありました。それは、1960年代から1970年代にかけて全国で展開された革新自治体の時代にほかなりません。個人的なことになりますが、私は全国に先駆けて1950年代にいち早く革新府政を切り開いた京都府で大学と大学院時代を過ごし、知事選挙で当時の蜷川虎三知事の当選のために仲間とともに微力を注いだ経験があるので、当時の時代状況が鮮明に記憶に刻まれています。
革新自治体は、京都府に続いて、1967年の美濃部亮吉東京都知事の誕生を皮切りに、1970年代には、大阪、沖縄、埼玉、岡山、香川、滋賀、神奈川の7府県と京都、名古屋、横浜、神戸、川崎などの政令市に広がり、1970年代後半には総人口の45%近くに及ぶ自治体にまで波及することになります。そして、これらの革新自治体による環境保全や福祉の増進などの住民本位の先進的な施策は、国政をも動かし、公害対策基本法の改正や老人医療費の無料化など貴重な成果を生み出すことになりました。
このような時代を切り開いた要因にはさまざまなものがあったと思われますが、何よりも、全国で展開された公害反対などの住民運動の高揚、そして、それを支えた日本社会党・日本共産党を中心とする革新政党の前進が大きかったといってよいでしょう。
こうした時代状況の下で、自治体職員は、住民の基本的人権の保障のために大きな役割を発揮しました。また、労働運動をはじめとする全国的な国民的運動に押されて、自民党政権の下でではあれ、国も、国民の利益と福祉の増進のために一定の施策を講じざるをえない状況が生まれたこと、そして、各省庁で働く国家公務員が、そのために少なからぬ役割を果たしたことも、ここであわせて記憶にとどめておきたいと思います。
新自由主義と政治主導の時代へ
(1)新自由主義による公務員制度の改変
こうした状況は、1980年代から始まる新自由主義の台頭によって、大きく転換させられることになります。新自由主義とは、端的にいえば、市場原理に最も重要な価値を見出し、社会全体を市場原理と自由競争が貫徹するにふさわしい方向へと再編しようとするものであり、その射程は、単に経済の分野にとどまらず、政治・行政、教育・文化、思想・イデオロギー、さらには人々の意識や生活様式など広範な分野にまで及ぶことになります。とくに現代社会における行政の役割の重要性から、新自由主義改革の大きな矛先は、行政のあり方の改変に向けられることになり、1980年代初頭の第2次臨調行革に始まり、今世紀にかけて行われた中央省庁改革や地方分権改革に至るまで、行政のあり方は大きく変えられてきました。
新自由主義の下では、国民の基本的人権の保障を目的に行われる各種の規制は、企業活動の妨げになるものとしてその緩和と撤廃が求められるとともに(規制緩和)、国や自治体が行ってきた公的な事務・事業は民間に開放され、営利の対象にされることになります(公務の民営化・民間化)。規制緩和と民営化・民間化は新自由主義推進の二つの柱であり、これを通して、国民の基本的人権の保障という行政と公務員の役割は、大きな後退を迫られることになりました。
公務員制度との関係でいえば、基本的人権の保障と民間活動の規制を担ってきた公務員の存在そのものが企業の自由な活動の妨げになることから、公務員の削減と非正規職員への転換が迫られることになり、他方で、公務員制度の中にさまざまな民間的な手法を取り入れることによって(官民人事交流の推進、人事評価制度の改変、民間企業の公務への参入など)、国民の権利保障という公務員の本来の役割の後退が進められることになります。
(2)政治主導による公務員制度の改変
公務員制度のあり方を大きく変えることとなったもうひとつの要因が、前世紀末から国のレベルで進められた「政治主導」の動きです。これは、端的にいえば、選挙で勝利した政治部門(国会の多数派によって形成された内閣)こそが民意を代表するものであって、それに忠実に従うことこそ国民主権に基づく公務員の本来の役割だ、というものです。この政治主導の論理に基づいて、2014年には国家公務員法が改正され、それまで各省大臣がもっていた幹部職員の人事権を事実上内閣総理大臣が掌握することとなり、第2次安倍政権の下で政治主導の名による幹部職員の恣意的人事が横行したことは周知のとおりです。また、地方公務員法自体の改正はなかったものの、政治主導の動きは地方にも波及し、橋下徹大阪市長(当時)や小池百合子現東京都知事に代表されるように、選挙で選ばれた長に忠実に従うことこそ部下たる職員の義務であるとして、自治体職員の独自の役割を否定する傾向が強まることになります(小池都知事が側近政治によって庁内民主主義を破壊し、局長・部長をはじめとする都職員の本来の役割をないがしろにしている現状については、末延淳史「検証小池都政8年─財界ファーストがもたらしたもの」『前衛』2024年4月号179ページ以下を参照)。
選挙で選ばれた政治部門の公務員もそれ以外の一般の公務員も、同じく「全体の奉仕者」としての公務員であることに変わりはありませんが、一般の公務員には、行政の専門家として何が具体的に国民全体に奉仕することになるかを自ら判断し、それを政治部門に反映させる役割を負っています。そして、政治部門は、専門的知見に基づく公務員の意見に謙虚に耳を傾けたうえで、自らの責任において最終的な判断を行い、それについての政治責任は自らが負う、という対応が求められます。こうして、両者にはそれぞれ独自の役割があるのであって、専門家としての公務員の考えをできるだけ尊重することこそ、政治部門としての公務員(政治家)に求められる資質ということになります。
再び公務員が本来の役割を発揮できる時代を切り開くために
今日に至るまでとどまることなく進められてきた新自由主義改革は、「自立自助」の名の下で、労働法制の規制緩和と雇用破壊、庶民増税と大企業・富裕層の税負担の軽減、社会保障費・教育費の削減などを通して、かつてない規模での格差と貧困の拡大を招いてきました。また、国民生活に不可欠な食糧やエネルギーを輸入に頼り、自給率の著しい低下を招くなど、「失われた30年」と呼ばれる経済の停滞と衰退を招いてきました。
こうした新自由主義的諸政策の弊害は、岸田首相さえも口先だけにせよ「新自由主義からの転換」を口にせざるをえなくなるほど、政治的立場のいかんを問わず、国民の間に広く認識されるようになっています。こうした状況を前にして、国民生活を守り、国民の基本的人権を保障すべき公務・公共部門とその担い手である公務員への国民の期待は、かつてなく高まっています。
新年に起こった能登半島地震と羽田空港での痛ましい事故は、長年にわたる公務員削減政策による公務・公共部門の弱体化の弊害を、象徴的な形で明るみに出しました(『学習の友』2024年3月号掲載の自治労連と国土交通労働組合・佐藤比呂喜氏の論稿を参照下さい)。
世界に目を転じると、もともと労働運動が強いヨーロッパはもとより、新自由主義先進国と呼ばれるアメリカでも新自由主義に抵抗する運動が、公共部門を含めて広がっています。ここ日本でも、昨年の西武百貨店池袋本店のストライキや公共部門における全医労のストライキに世論の注目が集まっています。
他方で、第2次安倍政権下での恣意的な官僚支配の弊害が明らかになるなかで、憲法に基づいて公務員が本来果たすべき役割に対する国民の期待も大きくなっています。
こうした時代状況の変化を前にして、公務員と国民諸階層が連帯して新自由主義の弊害を克服する展望を切り開くことができるならば、憲法に基づく「全体の奉仕者」としての公務員の本来の役割を再び発揮できるような状況が、そう遠くないうちに到来することになると私は思っています。
*本稿で言い足りなかった点については、以下を参照ください。
- 晴山一穂『日本国憲法と公務員ー「全体の奉仕者」とは何か』(学習の友社、2023年)
- 晴山一穂「公務員になったあなたへーー自治体職員としての気概」『住民と自治』614号(2014年6月号)
- 晴山一穂・早津裕貴編『公務員制度の持続可能性と「働き方改革」』(旬報社、2023年)